カウンター前の夜間学校:スナック「紅」
われわれのような「スナック新入生」にとって「スナック」は夜間学校である。ママさんが議長を務め、常連客は客員講師を務める。歴史、社会学、音楽学、天文学までもがシラバスに入っている。情報は必ずしも信頼できるものではないが、学問分野で私たちが学んでいる、いや、そこではなかなか得られないような内容まで、ウィットたっぷりに講義されている。
日が暮れはじめると、ミルチやハンサム食堂のような「オープンな店」で飲み食いする人達でにぎわう柳小路。そんな明るく無国籍な雰囲気の中に浮かぶ、小さな赤い看板「紅」。この辺りでは老舗となるスナックである。日本の飲み文化のもう一つのスタイルと、もう一つの時代を象徴するものだろう。
外からは中の様子が全く分からない「閉ざされた店」。一見さんでも大丈夫だろうか?恐るおそる扉を開くと、カウンターの中にママが二人。カウンターに並ぶ客用の椅子は八脚。コートを掛けるのに移動するのもやっとの小さなぎちぎちの空間である。カラオケ用の大きなテレビが据え付けられ、カウンターの中にはボトルキープの酒瓶が並ぶ。
「あら、いらっしゃいませ。どうぞー。」とママ達が声を掛けてくれる。
なじみらしい先客に挨拶をして空いている席に座ると、ママが「どうぞ」と乾きもののおつまみを出してくれたので、とりあえず、ビールを注文する。隣の客とは肩が触れ合うほどの距離である。
スナック「紅」は大ママの成子さんとちいママの久美子さんの二人で38年間経営している、柳小路で最も古いスナックだそうだ。成子さんと久美子さんは福島県会津出身で母娘である。
最初に大ママの成子さんが上京してきて、その後、久美子さんが上京。なんと、大ママには曾孫までいる。子どもが二人、孫が二人、曾孫が二人。見た目、とてもそんな風には見えな。
三十年前、この辺りにはスナックが多かったそうだ。大ママによると、スナックがなくなった原因は、ママ達がみんな年をとってしまった、ということもあるからだそうだ。蓄えがなかったのか、現在は生活保護で暮らしているママさんも多いそうだ。
それと相反して、紅はちいママの久美子さんがやり手だったようで、一時は女の子達が働くサロンとキャバクラを六件ほど持っていたそうだ。新宿歌舞伎町にも一時期ヒップホップバーを持っていたそうだが、今は辞めてしまっている。とはいえ、今も松庵に一件お店を持っているそうだ。
実家は会津の材木屋で煙草販売もしていた商家だ。ちいママは、その商売人の血を引いているのであろう、と大ママは言っていた。
紅はこれまで、何度もメディアで紹介されているそうだ。何度も紹介されたのは、今、だんだん減ってきている日本のスナック文化を残したい、という動きがあるかららしい。
いずれにしても、スナック文化はママとその顧客と一緒にゆっくりと高齢化しているようだ。 わたし達が見た限り、紅の客達は中高年かすでに退職した人、もしくはなにか自由業?を営んでいる人のようだった。 若干足元がおぼつかない高齢の紳士は、大ママと話をするために来ているそうだ。紅で毎晩酒を飲み、若くして「熟成」してしまう人もいるかもしれないが、歳を重ねてからのスナック付き合いは若さを保つのにはいいようだ。
もちろん若い客も大歓迎。ちいママによると、近年、紅には女性客も増えているそう。
「今は昔とずいぶん変わって女性のお客も来るわよ。女性だけでも来るわ。昔はそうじゃなかった。昔は国鉄、東京ガス、出版社の男性ばかりが来ていたのよ。仕事が終わって、毎日毎日来ていたわよ。」
「けっこう外国の人も来るのよ。一度来たらまた長く来てくれるの。引っ越してもメールくれて来てくれたりするの。名古屋から来てくれる人もいるし。」
話を聞いていると、有名人もけっこう来ているようだ。
ママたちにバーとスナックの定義の違いをきいてみた。
「スナックでは料理を出して、お客さんと一緒に座らない。ただ、料理をするのはめんどうなので、紅ではあられやナッツなどの乾きもの、チョコレート、個別包装された小さなチーズなどを出しているの。」
しかし、なぜわざわざ西荻でお店を出したのか。
「最初この近辺がよかったからかな。この辺は昔、隕石が落ちたパワースポットだったの。それをうちの親(大ママの成子さん)が嗅ぎつけてここにしたの。西荻から吉祥寺にかけて隕石が落ちて、パワースポットになったのよ。アリゾナと同じ。」
さて、ここからはパワースポットについての授業だ。
「パワースポットだから、この辺は宗教団体がたくさん集まって来るの。大昔、一億年かなんかわからないけど、ここに隕石が落ちたの。それでパワースポットになっているのね。落ちたのは本当。まず、霊媒師がその歴史を知って来たの。その後、次から次に霊媒師が来て。丹波哲郎なんかもいたわよ。なんとなくこのあたりはいいと引き寄せられて。」
「東京の中でも別格のパワースポットらしいわよ。『東京のへそ』と言われる大宮八幡宮があるし。伊勢神宮と関係が深いらしいわよ。大宮八幡宮の中には『小さいおじさん』や『妖精』がいるらしいわよ。」
パワースポットについてはよくわからないが、隕石が落ちたのは本当らしい。
「荻窪は隕石が落ちて『窪』ができたから荻窪となったといういわれがあるのよ。」
ちいママは西荻を出て他の地で商売をやっても、どうしてもここに戻ってきてしまうそうだ。
「最初はここ『紅』だけだったけど、他で店やバー、スナックもやったの。西荻でやった店はどこもうまくいったのよ。」
以前の柳小路について も聞いてみた。やはり、戦後は青線地と言われた非公認の売春地帯だったようだ。
店には二階がある。 二階にはしごで上れるつくりになっていて、八畳の畳敷きで何もない部屋があるそうだ。
続いては、歴史の授業である。
「昔はね、お店でいい仲になると、二人で上に上がっていっていたみたいよ。トイレもないからバケツなどが置いてあったそうよ。ここらの長屋の二階は全部そんな感じ。住んでいる人もいたし、商売の人もいたみたいよ。」
「昔はここの上に二号さんを囲って店を持たせていたんじゃないのかな。」
紅が入っている建物は長屋なので、二階は裏・隣の店と繋がっている。裏や隣の店が階段を使うと、こちらの店の天井もミシミシいう。この辺一帯の店は、ほとんどが長屋に入っている。建物は相当古く、五十年以上経っているのではないか、とちいママは言っていた。
柳小路の変化はバブルが大きな転機となったようだ。紅はバブル前と後ではどう変わったのだろうか。
「バブルのときは忙しかったわね。バブルがはじけた後が淋しくなって。この辺り、バブルのときは繁盛してたけど、その後、ここの長屋の店は歯っ欠け状態になってね。」
柳小路はバブルの前後で大きく変わったが、紅はバブルの波にはそれなりに乗り、その後バブルがはじけてからもなんとか荒波を乗り越えてきたようだ。
以前の柳小路は、今の明るいこことはずいぶん雰囲気が違ったようだ。何がきっかけでここが変わっていったのかを聞いてみた。
「ハンサム食堂ができたころからかしらね。ハンサムをやっている人達は日本人よ。タイに行って勉強したり、香辛料など仕入れたりしてるけど。ハンサムが柳小路に入って明るくなって活気づいたわね。」
「それまでは活気がなかったのよ。電気が消されて空き家状態だったの。バブルもはじけて、経営者達も世代交代の時期だったのね。十五年以上前。その頃は三~四軒ぐらいしかやっていなかったわね。ここは年中無休だったからここの看板の電気しかなかったりもしたわね。ここの通り全体がそんな感じ。さびれていたわね。」
「でも、バブルがはじけて、こんな小さな店が必要とされるようになったのね。それに、バブルがはじけた後、若者の仕事がなくなったでしょ。大学出ても就職できない。でも、このままじゃいけない、悪戦苦闘して、ハンサム食堂は始めたんじゃないの?あの頃は二人に一人ぐらいしか就職できなかったからね。バイトとかしながらやっていて、それだったら自分で立ち上げようと始めたのがはじまりだったんじゃないのかな。とにかく職につけない、なにもない、バイトもしれたもの、それで立ち上げた。何人かで…四人ぐらいでね。」
そんな話を聞いているうちに、常連客のカラオケが始まった。
新入生の我々をすんなりと受け入てくれ、のんびり酒を飲みながら幅広い分野の学問を教えてくれる場所、スナック。なんとなく、ただの飲み屋と言うよりも、酒と文化が楽しめる異次元空間だ。(ファーラー、木村、12月10日2016年)