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後継者を育てる昔ながらの修業の場レストラン 

現在、西荻窪は、個人経営の小規模なフランスビストロで有名になっている。ビストロ激戦区とまで言われている。 隣の荻窪駅で二十年フランス料理店を経営していたフランス人のシェフ、リチャード・ロドー (Richard Rodot)さんは、

「これらの料理はとても良いですが、問題もあります。」

と話した。ロドーさんによる 、2008年の経済危機の後、多くの人々は大きな事業を立ち上げることに恐れを抱いた。一方、個人もしくは夫婦で経営する小規模な店舗は不景気を乗り切ることができる。しかし、この パターンも新たな問題を生み出していた。一つは、スタッフの雇用ができないということだ。新しいアイデアをもたらす若者も雇うことができない。それは、レストランとしての精神が萎縮していき、そして、悪い意味でレストランの命であるメニューが変わらいという事態を招いてしまう恐れがあるということだ。

もう一つの問題は、外食業界という大きな産業への影響だ。

「人々はより大きな場所で訓練されると幸運であり、そして、彼らは自分の小さな場所を開く。しかし、彼らは誰も訓練しない。わたしは、日本では誰もが必ず誰かを訓練するという考え方が当たり前ではないと思うが、フランスでは誰かを訓練することに非常に関心がある。だからだろう。日本では現在、料理の専門家が少なくなっている。コックは大きなチェーンに雇われており、このようなものは訓練を受けているが、それはあなたがたが知っている『料理』というものではない。だから、それらの場所では料理の品質を失っている。味は良いですが、基本的にはどこでも同じです。」

 

スタッフをトレーニングする環境を維持するという問題以外にも、今はそのスタッフを見つけることさえ難しくなっている。現在の日本では、運送業界・建築業界などで人手が不足している。いわゆる、「きつい仕事」である。飲食業界もそうだ。多くの飲食業者達が、現場の従業員不足、後継者不足に頭を痛めている。そして、経営も現場もこなさなければならない小さな飲食業者が軒を連ねる西荻窪でも、これは大きな問題となっているようだ。

 

これらの課題に直面し、対処してきた西荻のレストランが、ビストロ・サン・ル・スーだ。 ロドーさんの話していたことから考えると、ビストロサン・ル・スーはレストラン経営の伝統的なモデルを体現している店かもしれない。そして、ここは、新しい世代のスタッフに彼らの成功を渡すことができるレストランであろう。

     

ビストロサン・ル・スーは西荻のビストロの中では、どちらかというと「高級なレストラン風」といった印象を受ける店だ。シェフの金子淑光(かねこ よしみつ)さんと料理人たちはパリッと洗濯された真っ白で清潔なコックコートに身を包み、金子智恵美(かねこ ちえみ)さんらフロアー担当者はきりっとした黒いパンツスーツに身を包んで、てきぱきと働いている。

 

ビストロサン・ル・スーは、1995年、金子さんご夫妻が東京女子大近くの店舗でスタートさせた店だ。八年間そこで経営をし、その後、現在の場所に移転。

「高級じゃないと思ってるんですが。自分たちの中では。知らないうちに…。なんかはじめた頃はけっこうなんか、一番安いタイプのフランス料理だったんですね。」

と智恵美さん。

「女子大の、ほんと一番最初に二人でやっていた店は、ほんとに『ビストロ』っていうのをやってたんですが。それがやっているうちにもっと安い店がいっぱいできちゃった。わたしたち自体は変わってないんですけどね。わたしたちが二十数年前にはじめたときって、フレンチって高級だったんですよ。もっとずっと。うちみたいなビストロっていうのはどっちかっていうと大衆で、『こんな気軽なフレンチってあるんだ』、ってみなさんおっしゃってたんですけど、何か知らないけど、もっと安いお店ができちゃった。やっぱ時代なんでしょうかね。」

 

店が繁盛してきていいお客がつくようになってくると、それに見合ったものを出すよう努力していき、それとの相乗効果で料理の値段も上がり、現在のような西荻の中では高級なビストロになっていった。

 

最初の店は夫婦二人で切り盛りをしていた。シェフの淑光さんは福島県出身。実家が洋食屋だったため、そのつてをたどって東京の洋食屋に就職。智恵美さんは静岡県出身。進学で上京し、卒業後はフードコーディネーターとして仕事をしていた。二人は東京で知り合い、その後、店を開くためフランスへ修業の旅に出た。

「ま、一回フランスに修業の旅に二人で行って。わたしが二十八ぐらいのときだったと思うんですけど。でも短いね。ほんと二年弱くらい。行ったうちに入らないくらいで。」

と智恵美さん。二人はかわるがわる、フランスの修行の旅のことを話してくれた。

「フランスに行ったのは、今思うとやっぱりよかったですよね。」

と、淑光さん。

「けっこう地方ばっかりで。ほんとはパリがよかったんですけど、パリだと自分でアパート借りなきゃいけないんで。そんなお金はないんで。地方だと牢屋みたいだけど部屋は与えてくれるんですよ。それで住み込みで、最初一番南仏に行って、そのあと、リールって北の方に行って、その後どこ行ったんだっけ、ロアール地方、真ん中の方行って、最後はナントっていう西側の。東に行こうと思ったらお金なくなっちゃって。」

と、明るく話す智恵美さん。

「当時やっぱり二人でフランス行くっていうの、あまりなかったからね。今はそうでもないけど。だから労働ビザとかとるのも大変で、今ももちろんとるのは大変なんだけど。」

と、淑光さん。

 

修業したフランスのレストランは、淑光さんが日本で紹介してもらったレストランだった。

「こっちで働いたときに、シェフが向こうで店やったとか、ついていったとか。それでいろんなところ紹介してもらって。」

「シェフは日本人で。みんなフランス料理をやってた。ナントでその人はフランス料理店やってたんですけど。」

淑光さんは、東京に出てフランスに修業に行くまでずっとフランス料理店で働いていた。ちょうどバブルの時期だった。

「フランスは、えと、92年、93年ぐらいだね。ちょうどバブルが崩壊した頃。」

智恵美さん。

「むこうに行ってるときにちょうどはじけて、帰ってこないほうがいいよって言われて。自分も、フランス行く前は、フランス料理で自分の店を持とうなんて全然思っていなかった。バブルだったんで、家賃から保証金から、すごい金額だったから、無理だなーって思ってたけど、崩壊して帰ってきたら、友達とかぼちぼち店始めて、どのぐらいでやってるの?って聞いたら、このぐらいだって。で、もしかしたら持てるのかな~って。」

と、淑光さん。

逆にバブルが崩壊したことでお店を開きやすくなったようだ。

 

現在の場所に移ったのは2003年。東京女子大の近くの店時代は12.6坪の小さなスペースだった。席数は十二席ほど。カウンターまで入れると十六席で、ほとんど人は通れないくらいだった。

「ここは約倍で。お料理自体はやっぱり人の手を借りてるんで品数は増えました。スタッフがいてくれているんで。」

淑光さん。

「ま、わたしたちが移転したのも、これ以上二人でできることはないなって思って。二人でやってると、もっとやりたいことがいっぱいあったけど、でも、もうこれ限界だなって思ったんで、ずっと広い店探してたんですけど、なっかなか見つかんなくって。当初の予定じゃ五年で移転する予定だったんですけど。うーん、でもなかなか見つかんなくって、営業しながらゆっくり物件を探したんですけど。」

智恵美さん。

思っているような物件に出会えるまであまり急がずに探し、現在の場所にたどり着いた。客席は二十二席から二十四席。インタビュー当日のテーブルの配置で、だいたい二十二席だそうだ。

 

店を広くし、スタッフを増やしたことにより、料理の幅も広がり、当然さばけるお客の人数も増えた。西荻には多くのビストロやレストランがあるが、どちらかというとこじんまりとした店が多く、正社員を数人雇っている個人店は少ない。しかし、サン・ル・スーは正社員三人を雇っている。他にアルバイトを三人。従業員を雇うことによって、金子さんご夫婦の働き方はどう変わったのだろうか。

「あ、もう全く違いますね。もう、まず、勝手に休みが取れないとか。前は、二週間ぽっととって、フランス行ったりとかしょっちゅうしてたけど、だけどそれはできない。」

智恵美さん。

「休んだ分、スタッフの給料も払ってやんなきゃいけないし。その分ボーナスでとか。」

淑光さん。

「その分自分たちの自由がなくなったっていうか、やっぱりこの人達を支えていかなけりゃなんないと思うと、ね。」

智恵美さん。

店を移転する際に、もともと人手は増やす予定だった。しかし、今の人数まで増えるとは思っていなかったそうだ。今、基本は金子さんご夫婦とキッチンの正社員三人である。二人で切り盛りしていたときと従業員を抱えている今とでは、経営的にはどうなのだろうか。

「いえ、それは全然今の方がいい。二人でやっていると限界っていうのがね、あるんですよね。」

智恵美さん。

「限界が。やっぱり人の手を借りると、ただ単純に一人増えただけでこなせるってのが全然違う。料理もそうだし、あと、こなせるお客さんの量も違うし。」

と、淑光さん。

 

金子さんご夫婦は、人を増やしたことは正解だったと感じている。しかし、悩みもあるようだ。二人ははこう話してくれた。

「そうですね。ただ、今、この世界って、飲食ってたぶんみんなそうなんですよ、若い人たちが今、参入してこないんですよ。あの、なんていうか、こんな修業っていうのをみんなしないんですよね。今うちでいてくれてる人達は良く働くけど、今はなんて言ったらいいんでしょう、たぶんご存知かと思うんですけど、福利厚生とか。自分で店を持ちたいと思っている人がほとんどいない。一国一城の主になっても苦労するだけですよね。それよりか、自分の時間とか休みとかそういうのがあってっていうのが。みんなそういうのになっちゃってるみたいですね。」

智恵美さん。

「辻調(辻調理師専門学校 )のフランスコースとか行って二百人くらいいたとしても、ほんとにフレンチで残る人って十人いるかいないか。十人に一人残んないですね。みんな途中でやめちゃう。みんな途中で家庭に行ったり、全く違うことやったりとか、学校給食とかホテルに入ったりとか。八時間労働で週休二日で。」

と、淑光さん。

「学校給食はすごく給料もいいし休みはあるし。なんか、そっちみたいなんですよね。自分の時間。だから今、チェーン店とか見ていてもアルバイトが外国の方。学生さんとかじゃなくって。外国の学生さんが多いですよね。」

智恵美さん。

 

現在、サン・ル・スーで働いているのは、ほとんどは料理学校を出た男性だ。

「よく働きますよ。十五時間でも文句も言わず。だいたい朝は八時から九時ぐらいで、やっぱり終わるのは十二時くらい。うち、各週二日(休み)なもんで。月曜日と第二第四火曜日がお休みなもんで、ま、月に六回から七回のお休み。」

と、智恵美さん。

 

今、キッチンには三人の料理人がいる。一番新しく入った男性は、ランチを担当したり、パンを焼いたり、ディナーのサービスをしたりしている。伝統的なフランス料理の修業ステップとして、初心者はホールからスタート。そして、デザートやお料理に近づいていき、キッチンに入り、最終的にはメインディッシュを作る「ストーブ(コンロの火)の人」であるシェフに近づいていく。これは数年かかる修業である。

料理人として独り立ちする次の大きなステップは、より多くの経験を得るためにフランスに行くことだ。ビストロサン・ル・スーのシェフの一人は一年間、フランスに修業に行っている。彼は七年半に渡りサン・ル・スーで働いた。そして渡仏し、フランスレストランを経営する日本人シェフの下で修業し、ここで一年間働く予定だ。修業が終われば、彼はビストロサン・ル・スーで再び働くために日本に戻り、一年間働き、そしてその後、彼は彼自身のレストランを立ち上げようと考えている。

 

ビストロサン・ル・スーからは、すでに同じプロセルを経て独り立ちしたシェフもいる。彼はフランスに行き、現地では日本のシェフではなくフランスのシェフと一緒に働いた。「それはとてもいい」と、淑光さんは言う。

 

「これは自分の子どもたちが成長しているようなものです。変な子どもたちですよね!」

智恵美さんは笑って言う。金子さんご夫婦には子どもはいないそうだ。

「子どもがいれば、この種の仕事はできません。」

 

ここまでの話を聞いていると、現在働いている料理人たちは、いずれは独立する。そのときはまた新しい料理人を雇わなければならないが…。

「そうですね。そこがこう、うまい具合に入ればいいけど、入んない。だんだんだんだん、難しくなってくる。そういうね、バイトのところに出しても、ぜんぜん(電話が)かかってこないとか、けっこう話は聞くし、紹介も今はあまり…。」

クオリティが高いおいしい料理を出すレストランであっても、それを作る料理人が減ればかなり厳しい状況になるだろう。

 

メニューは、日替わりではないが、絶対動かない定番と季節ものがあり、それらはシェフの気まぐれで変わっていくそうだ。

「定番はもうほとんどビストロみたいな。鴨のコンフィとか、牛ほほの赤ワイン煮とか、そういうのは定番で必ず置いておいて、プラス、そんときの素材、材料によってちょっと変えてみたり、あと季節で変えてみたり。」

 

サン・ル・スーに食事に来るお客達は、夜は比較的常連が多い。東京女子大の店時代からずっと来るお客も多い。

「七十だった人が九十になっても来てくれたりとか。」

「そういう方はガンガン食べますよね、やっぱ。うちに来るお年寄りの方、みんな肉だよね。元気ですね。ほんとに元気。そしてポジティブ。非常にポジティブ。」

智恵美さん。

 

昼間はほとんど女性客。

「ほぼ。今日も二十四人中一人だけだったね、男の人。」

「日本は、そうなんですよね。フランス料理は女性のもの。なんかフランスとは違いますよね。なんかフランス行くと、男性がビストロで安ワイン飲みながらステーキとか食べてると、わーいいなぁって思うんですけどね。あれがサラリーマンの風景っていうか。ま、なんか日本じゃあまりないっていうか。場所柄だと思うんですけどね。ここはやっぱり住宅街だから、男の人いないみたいな。」

「夜はやっぱり半々くらいかな。基本カップル、ご夫婦が多いので。ご家族っていのはやっぱり土日?」

「うちはお子さんはお断りしちゃってるんです。小学校高学年のお客様から。一人でコースが食べれて、他のお客様に迷惑がかかんない年齢っていうんで。」

智恵美さん。

 

二人は西荻に二十年住んできて、西荻の大ファンになっている。

「西荻って環境的にいいですよね。ま、変な奴がいない(笑)。のんびりしてる。」

「平和。すごく平和。だからお客さんも平和なんだよね。わたしたちも都心に食べに行って、『わーなんかやなやつだなぁ』みたいな人いるじゃないですか。札束で人の頬っぺたひっぱたくような。そういう人もいない(笑)。」

「マナーの悪い人間って、西荻ってそんなにいないですよね。」

「みなさん、お行儀がいいんですよね。吉祥寺は(観光地化されていて)ね、荻窪はなんか、がさっとしてて、その間の田舎感っていうか。すごいいいよね。田舎だけど上品な田舎。いい感じの。」

「そういった意味では住みやすいっていうか。」

こうかわるがわる楽しそうに話二人。西荻のお客と空気感は二人に合っているようだ。

 

サン・ル・スーの客単価は、ディナーではだいたい八千円前後。

「飲んでこの値段だったら安いと思うんだけどね。」

ワインはほぼ九割がフランスワインで、ごく一部が日本ワインだそうだ。日本のワイナリーもがんばっているので、末端ながら応援したいという気持ちがあるそうだ。料理の素材は、牛はオージーや熊本の赤牛、フォアグラはハンガリー…などなど。そのときによって変えている。

 

マンションができるなど、人口も増え、外から「観光」に来る人も増えている西荻。西荻でのレストラン経営はどうなのかをうかがった。

「いやあ、でも、商売だからそんなに甘くはないですよね。やっぱりもう、値上げが、材料の値上げとかいろんなものの値上げがハンパじゃないし、でも私たちは値段変えられないし。あの、やっぱり、値段に対するシビアさってのはハンパじゃないですから、お客様は。」

智恵美さん。

「特にこういうところだと。都心の六本木とか麻布とかああいうところの人はお金関係なくて、高ければいいっていう人がやっぱりいるんで。まそういう人たちはこっちに来なくって。こっちは現実的でシビアで。」

淑光さん。

「いやぁ、もう、ほんとにすごいですよ。値上げをしないでうまくやっているか?なんかもうね、何とかやってくしかないっていうか。あれですよね。ほんと十円でも上がろうもんなら大変な騒ぎになるもんね。」

「厳しいですね。ま、変な話、今、送料とかもすごく上がって、我々なんかけっこういろんなところから送ってもらうことが多くて、送料もハンパなく上がってますし。ワイン、材料、全て上がってますし。今、特に野菜なんかすごいです。でもだからってね、サラダ減らすわけにもいかないし。」

 

今後の展望はについて、うかがった。

「拡張?いや!もう!これ以上仕事が増えたら大変だから!!なんかどうやって、なんて言ったらいいか、自分たちで負担のないようにしようかと、すごい、やっぱ考えますよ。今、もう、いっぱいいいっぱいですから。」

智恵美さん。

「いや、ま、自分が来年六十になるんで、そうなってから、ちょっと、もしかしたら休みを週休二日にするとか。それはもう考えてるんですけどね。そうすると、従業員も抱えてるわけだから従業員の給料も、そんなに休んでいいのかなぁと。ねぇ、人もだんだんだんだんそんなに来なくなったらどうやっていくかとか…。今二人でそう考えてる。やっぱ、今の生活は人間の生活じゃないですから。ほぼ100%店ですから。自分の時間がない状態だからね。」

淑光さんはこんな風に話を締めくくってくれた。

 

きつい職場の後継者不足、物価の上昇、高齢化。これだけ繁盛しているレストランにも重くのしかかっている問題。飲食業界の現状は今の日本社会の状況を垣間見せる。その厳し状態のなかでも、ビストロ・サン・ル・スーは、いまだ新しい世代の料理人を育てている賑やかなフランス料理店だと言えるだろう。(ファーラー・ジェームズ、木村史子、3月23日2018年)。

Hana Nishi-Ogikubo
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