煙のない昭和喫茶店
今の東京、雰囲気のある喫茶店の欠点を一つだけ挙げるとしたら煙でいっぱいな事だ。そんな中、煙という欠点がない喫茶店「ダンテ」は、オーナーの吹田守弘(すいた もりひろ)さんが1965年に開店した禁煙の小さな喫茶店だ。お店は材木造りで、内装は黒檀で飾り付がされている。吹田さんは山小屋をイメージして造ったそうだが、狭く天井が低く、奥に向かって細長い空間は多くのお客達に船内を連想させる。中央線沿いにある戦後の喫茶店としてよく知られており、客席が多く心地よい。
「昔はですね、ここ商店長屋として、ここからあっちまで造ったんですよ。それで、建てた方が材木をあつかってた方だったんです。いい材木を結構使って作ったっていうので、だいぶ丈夫ですよ。」
「ここは長屋なので、ですから改装はするけども新しく建て直してはいないですね。なぜかというと、土地の法律で新しく建てるためにはちょっと道路を広げなきゃいけないんです。それを皆さん嫌がって骨組みだけ残してたんですね。」
入り口を入ると、左側の壁に沿って大きなバーカウンターが伸びている。カウンター背後の左側の壁は、古びて黄ばんだ古典的なCDとレコードに埋められている。真後の大きな棚には、カップと受け皿のコレクション、焙煎されたコーヒー豆が入った瓶が整然と並べられている。店にはイタリアの「ダンテの家」への入場券が飾られている。吹田さん自身は行ったこともなければ、店の名前となった作家に深い関心があるわけでもない。「お父様が英語教師だった」、と吹田さんは話してくれた。 英語教師だった父親の影響で吹田さんは子どもの頃から外国の多くの本や版画を目にしてきた。その中に、ダンテがフェレンツェの橋で、恋焦がれていたベアトリーチェという女性を見つめている印象的な版画があった。喫茶店の名を「ダンテ」とつけたことは、この版画の影響があったかもしれないとのこと。店の歴史や年数に関する吹田さんの話はあいまいな部分が多かったが、お父様の強い影響を受けている事は言葉の端々から読みとれた。
吹田さんは銀座でバーテンダーの勉強をしながらアルバイトとして喫茶店で働き、大学三年生の時の「ダンテ」を開店した。
「最初は三年間ぐらい、借金してるからお酒やりました。その方が儲かる。僕お酒飲まないんですよ。」
と吹田さんは話した。
1960年代、喫茶店は人気だったが、昔ほど利益は出ない。
「なかなか売り上げも、お酒と違ってないですから。僕は長くやっていてそう思います。昔は確かに利益、ありましたね。すべての仕入れが今より安いし。」
と吹田さんは話した。
「ダンテ」を開こうと思った理由をうかがった。
吹田さんは元々フルート奏者を目指していたそうだ。
「当時は一年三百六十五日あると三百六十六日吹いてたって感じですね。」
と、吹田さん。吹田さんは、当時、日本一の先生のレッスンを受けていた。ある日、自分より二つ年下の人物と同じレッスン受けたそうだ。ところが、その人物にはずば抜けて才能があると感じてしまった。そのため、自らフルート奏者への道を断念したそうだ。吹田さんは将来を見つめ直した。
「勤めでも満員電車にのるのが嫌で。どうしようかと思ってたら、親父が英語の先生だったので、いろんな外国の本とコーヒーが常にあったんですよ。レコードとコーヒーがあれば、自分でお店やって行きたいなと思って。」
ダンテのお客は、五十年以上の間に大きく変化した。
「当時はコーヒーの専門店の最初の頃でしたから、まず数が少なかったですね。ですから、すごく混雑してね。当時はお金を持ってて若い人が多かったですね。みんなネクタイしてて。今とは風景というか、環境は違いますね。」
今のお客のことを尋ねてみると、
「年齢の方が多いですね。男性と女性の割合が六:四ですね。男性が六で女性が四ぐらいだと思うんですよ。でもいらっしゃる時間帯によってほとんど女性。時間帯によってほとんど男性。」
ダンテではクラシックがいつも流れているが、昔はジャズもかけていたそうだ。吹田さんは高校時代、放課後ジャズ喫茶に行って大音量で流れている音楽を楽しんでいた。それでダンテでもジャズをかけていたが、今はもうかけないそうだ。
「今はちょっと個人的に聞きたくない。昔よりもジャズ聞くと感動が弱くなったですね。あの頃の情熱がないですね。」
と笑いながら話してくれた。
レコードは二十分に一度針を上げなければならないためこの仕事の環境に合わない、という理由で今はかけていない。吹田さんの経営理念は、「自分のしたいようにすること」だ。
吹田さんが「ダンテ」を開店した頃にはジャズ喫茶が人気だった。吹田さんによると、当時は誰もオーディオシステムを持っていなかったそうだ。
「ですからいい音で大きなスピーカーでガンガン聞くのが唯一の楽しみだったんですよ。今はみんな持ってるから必要ないんでしょうけど。だから僕も色々アルバイトをして、夢は『お金貯めてステレオ買うぞ』と。そして初めて流した時の感動。」
吹田さんはカウンターに並ぶサイフォンでコーヒーを淹れている。何十年もの経験で、全てのブレンドによって違う独自の淹れ方を会得したそうだ。オーナーの個人的な好みの味にコーヒーを淹れるのが大きな特徴だ。
「こういうのやり始めて思ったんだけど、自分の好きな味を自由に作るのが一番楽しいです。『えー』なんて思いながら作りたくないし。」
「大体なんでも飲みますけども、強いて言えば酸味が強いのが苦手ですね。でも酸味を出したコーヒーでもお砂糖、ミルクを入れて飲むようなのは好きですね。」
ダンテの一番人気は「本日のサービス」だ。豆は全てフェアトレイドで仕入れていて、値段は高いがとても品質が高い。以前は地域の違う七種類の豆を使っていたが、気に入らない豆が出てきてからやめたそうだ。
「例えばモカなんか嫌いだったんですよ。野性的な味で。でもやだなって思いながらしょうがなくやってたんですね。『やだやだ』と思いながら出してたら、やっぱり農薬が出て輸入禁止になったんですよ。それだけ畑も悪くなってたんですよ。」
現在、モカは入ってくるが、吹田さんはモカが嫌いになってしまったため入れていないそうだ。今、中米のパナマ、グアテマラ、南米のブラジル、コロンビアから仕入れている。
ダンテが喫茶店として素晴らしいのは禁煙であることだ。昔ながらの喫茶店で禁煙なのは今時珍しい。
「禁煙にしたのは六年前なんですよ。それまではみなさん普通に吸ってましたね。それが嫌でカウンターだけにしたんですけど。三割ぐらいのお客さんが減りましてね。どんどん盛り返してるけどね。」
嫌煙家が増えてきている事もあり、客足は回復してきているようだ。吹田さんの試みから、伝統的な喫茶店を禁煙に変えても、昔ながらの雰囲気を保ちながらたばこの害を遠ざけることができると分かる。
吹田さんは とても気さくで カウンターの常連客と話すことも楽しんでいる。しかし、 多くのお客達はテーブルで静かな時間を楽しんだり、友人と話すことを目的にしている。 ダンテはネクタイと煙抜きでわたしたちを昭和の風景へ連れ戻してくれるクラシックカフェだ。東京都心であるにもかかわらず、落ち着きのある、味のある、孤島のようだ。(ファーラー・ジェームス、川嶋 寿里亜、木村史子、1月31日2019年)