アジアの夜市を戦後風情の「東京酒場」に導く
西荻に遊びには来るが西荻窪住民でない人にとって、「柳小路」という名前はピンとこないかもしれないが、「ハンサム食堂」がある路地というとピンとくる人は多いだろう。柳小路に三店舗を展開するタイ料理店「ハンサム食堂」は、他のどんなビジネスよりも、戦後の暗黒市場の雰囲気と若々しいコスモポリタンな雰囲気を兼ね備えた飲み屋街として、柳小路のイメージをつくり出した。
今回、 オーナーのお一人、三品啓介(みしな けいすけ)さんにお話をうかがった。オープンは2001年。
ハンサム食堂の名前の由来を聞くと、
「話していて出てきた名前ですね。特に意味はないです。」
というこたえが返ってきた。とは言え、若くハンサムな男仲間四人でスタートさせたハンサム食堂は、それまでサラリーマンがスナックのママと飲んでいた小路、柳小路のイメージを変えていった。そして、若い世代の男性客も女性客もここに惹きつけられていった。
立ち上げメンバーたちはタイ国との関係は特に深くなかったものの、タイ料理居酒屋となったのは、「いろいろ試行錯誤するうちにタイ料理に落ち着いたんです。」ということだった。しかし、この選択が、「新しい料理の味」というだけではなく、現在の柳小路特有の異国風な東京飲み屋街のイメージをつくったのだ。
もともと吉祥寺で店を開こうと思っていたが、家賃が高いすぎたため西荻窪に出店を決めたそうだ。2001年の柳小路のビジネス環境はかなりきついものだったようだ。
「そのときはテナント募集ばっかり、空いているお店ばっかりで真っ暗だったんです。ほとんどがそうでしたね。開いている、営業しているお店の方が少なかったですね。スナック…そうですね、年配の方が年配のお客さん相手にやっているお店がぽつぽつあったくらいでしたね。そこの『紅』さんくらいですかね、残っているのは。」
柳小路は戦後、「青線地」だったそうだ。そのため、西荻窪の住民の中でも評判はあまりよくなかった。
「西荻で生まれた、子どものころから西荻に住んでいる人たちは、『この通りは通っちゃいけません!!』と親に言われていたそうです。怖いから。特に女の子は通っちゃいけません、って言われる通りだったんです。」
2001年から十五年間、お客達もだんだん変わってきている。 中年のお客も現地の家族も増えている。
「昔は、駅からうちに帰る途中で寄る、という人も多かったんですけど、今は早い時間もお客さんがちらほら入るようになりましたから。六時スタートで、六時から。昔は、一件目で来るというより二件目三件目で来るって感じでしたけど。この辺のイメージだと。でも、ここ数年変わってきましたね。あと、以前は住んでいる人相手の商売って感じだったんですけど、最近は西荻自体盛り上げっているのか、骨董通りなどが紹介されて、休みの日にわざわざ来るっていう人が増えたというのが実感としてありますね。西荻以外の方。テレビとか雑誌などで取り上げられることが増えて。明らかに十五年前とは違います。」
柳小路の一般的な飲み屋のイメージも変わってきてようだ。
「印象なんですけど、お酒と食べ物の売り上げの割合がどんどん変わってきていて、前は圧倒的にお酒が出ていたんですが、それが今、変わりつつありますね。食べ物のほうが出る日の方が多い…。やっぱり若い人がお酒を飲まなくなった、ということがニュースなどでも…。それは商売やってると如実に感じますね。お酒が出なくなったと…。商売する側としてはお酒が出る方がはっきり言って楽ではあるんですが、それがこう、小売りとか店全体に多少健全な空気を送り込んでいるような気がするんです。お酒で、こう朝までやってないと商売が成り立たなかったときと比べて、どっちがいいかというと難しい問題ですね。」
飲むだけではなく、料理を食べに来るお客が増えてきているようだ。
では、そのタイ料理を作ってるキッチンのことと、作っているスタッフ十人についてうかがってみた。
スタッフはみな日本人。狭い路地の中で、レストランのキッチンは三か所に分かれている。スタッフは狭い路地の間を行ったり来たりして店舗に料理を運ぶ。
「メインのキッチンはここ(二号店)ですが、性質の違うキッチンが各店舗にあって、揚げ物のキッチンは離れていたりとか。揚げ物は一番小さいところでやっているんですが。ここは、よく、いろいろ、一番出るものをやって、あっちの方(三号店)は冬場タイすきという鍋をやっているんですよね。その鍋の準備とかはあっちのキッチンでやっているんですよね。それで、店舗を行ったり来たりして。効率悪いけど、それがお客さんにしてみれば、見てておもしろいようで。」
ハンサムの店舗の派手なデザインとスパイシーな料理の香りも、柳小路に東南アジアの屋台村の雰囲気を醸し出している。
「屋台っぽくっていうのは意識してました。今はもうないんですが、前はほんとにタイから屋台を買って来たんですよ。それを中に入れて厨房にして、それを囲む形で営業をやっていたんですよ。」
一番出る料理は、タイの炭火焼鶏「ガイヤーン」だそうだ。
「チキンだけではなくて、豚もあるし、牛もある。日替わりでいろいろやっています。タイの屋台料理はすごく複雑な料理ではないですけど、おもしろい料理ですよ…スパイスというよりは、ハーブですかね。生のハーブを多用する。インド料理のようなドライスパイスを多用するのではなく、生のハーブですね。」
開店当初からスタッフ達は年に二回ほどタイに行って、食べ歩きをして勉強する、ということをしてきた。
「今もタイには毎年全員行っています。今月の末にお店の半分が研修でいきます。」
現在提供しているのは、伝統的タイ料理だけではなく、創作タイ料理もある。
「今は日替わりの料理では…今もぼく、ポテトサラダを作っているんですが、もちろん、ココナッツミルクを入れたりとかもするんですが、最近では純粋なタイ料理でない居酒屋風の料理もありますね。最近はちらほらこういうのも入ってきていますね。タイ料理が、現場のタイに行っても最近はどんどん変わりつつあるっていうか、タイ料理も昔ながらのものじゃなく、フュージョンがはじまっている。ま、そういうのもむこうに行って、実際に食べておいしかったっていうものをなるべく再現するようにしています。完全な創作ではなく。」
昔から柳小路に関係する人々とのつながりも、いまだにあるそうだ。
「創業当時、柳小路は年配の人が多かったけど、その当時から来ていらっしゃる方もごく少数ですがいますよ。ここを直してもらった大工さんとかいるんですけど、ここ、はじめる前からここにいらしてた、もう大工は引退されているんですけど、今もたまに店にいらして…。向かいでスナックをやっていた『かおるさん』という人がいるんですけど、その人はもう店を辞めたんですけど、毎日飲みに来ます。たぶん今日も来ます。」
「やっぱりぼくらは前からやっていた方にかわいがってもらって、ありがたくいい関係が築けたと思います。ここに来たときは、完全に年下、若いのがわけのわかんないことやってるなーって感じだったんですが…。でも、徐々にじょじょに、なんとなく付き合いが深まる中で関係ができて。」
小さな飲食店が入った長屋通りの柳小路。ハンサム食堂は若いパワーで柳小路に乗り込み、柳小路の雰囲気を徐々に変えていったのだ。戦後からの風情を色濃く残していた「東京の酒場」が、今、「アジア的な屋台文化」を連想させる場所になりつつある。(ファーラー、木村、4月24日2017年)