新型コロナウイルスのパンデミック下で混乱が深刻化する中、飲食店では店主の忍耐力と創意工夫が求められた。しかし、そうした深刻な経験を経ることで、彼らは仕事や生活における負担に順応するための独自の方法を見つけている。多様な適応をする飲食店の中の一つが、西荻窪で夫婦が営むカフェ「raccoon」だ。西荻窪駅南口から徒歩六分ほど、ゆっくりとした時間が流れる神明通りをしばらく進めば「raccoon」の木の看板が見えてくる。ロースイーツとカレーを提供する小さなカフェとして2017年二月にオープンし、先日五周年を迎えた。「自宅みたいにくつろげる場所」をイメージして作られた白とグレーを基調とした店内には、西荻窪のリサイクルショップや古道具屋で買ったというアンティーク調のこだわりの家具や調度品が並ぶ。前の自宅で使用していたという布張りの大きなソファや木のテーブルをはじめ、席ごとに異なる素材の椅子やテーブルが店内に配置されており、家のようなあたたかさがある。
こだわりのビーガンメニュー
raccoonは夫婦二人で切り盛りしており、奥さまの井澤みちる(いざわ みちる)さんが料理の下ごしらえと提供を、旦那さまの信仁(のぶひと)さんはカレーの調理を担当している。カレーの基本は、東京で出会ったインド料理をベースとし、素材の味と食感にこだわっている。また、野菜カレーをはじめ、ロースイーツなど、ビーガンメニューも用意している。
「西荻窪でビーガンのイベントがあった時に、うちはスイーツがビーガンだったので、ビーガンの方たちが食べに来てくださったので、ビーガン志向の人も最近多いのかなって思って、ビーガン対応の野菜カレーを作ったんです。そうしたら、ビーガンじゃないお客さんも普段の生活で野菜をそんなに摂ってないから、週に一回うちに来て野菜のたくさん入ったカレーを食べたいって方もいて、結構野菜カレーっていいなって思って。最初は週替わりメニューだったんですけど、常時あるようにしました。その頃、ポークカレーと普通のカレー二種類だったんですけど、その頃から三種類にしてますね。今はポークと野菜と、週替わりカレーの三種類にしてます。」
ロースイーツはこの店のキーポイントと言っていいだろう。
「基本的に乳製品は使わないようにしています。」
みちるさんは、ロースイーツをつくるに至った経緯を話してくれた。
「昔、病気をした時に太って、ダイエットをはじめた時に食事制限をしていて食べれるお菓子がなくて。最初は自分で、おからでチーズケーキを作ってみたりとかやってたんですけど、どうしても美味しくなくて。そしたら友達が、今ってこういうスイーツがあるんだよって教えてくれて。ビーガンの思想もないし、食べたこともなかったけど、初めて食べた時に美味しくて。ロースウィーツは焼かないので、焼きすぎたとか膨らまなかったとかいう失敗も少なくて作りやすいです。フードプロセッサーとミキサーはいるんですけど、オーブンがなくても作れるので、自分でも作れると思ったんです。お店を始めた時に、何か甘いものをメニューに入れるならロースイーツだなと思ってメニューに追加しました。」
材料の管理のしにくさから、今現在販売しているロースイーツは「ローチーズケーキ」のみである。「チーズじゃなくて、カシューナッツとココナッツミルクとココナッツオイルに、ちょっとレモンと味噌が入ってます。味噌の発酵っぽいのがいきています。ロースイーツの手法としては珍しくないんです。」
会社員生活を抜け出して見つけた地域コミュニティ
みちるさんは、カフェを始めるに至った経緯について教えてくれた。
「昔からお店をやりたかったわけではなくて。でも、主人がカレー好きで、それで毎日のように作り始めたところから、『カレーでお店が出来ないかな?』ってなって。で、私がカフェだったら出来るんじゃないかなって。それでお店を探していたら、ここの物件が空いていて、そこからトントン拍子にお店が出来たって感じです。」
私たちが今までインタビューをしてきた方々と同様、みちるさんはカフェを始めるまでは料理とはかけ離れた仕事に就いていた。彼女にとってカフェを開くことは会社員生活からの脱却であった。
「ITの仕事をしていて、その前はデザインの仕事をしていて、全然料理とは関係のない仕事をしていました。料理も得意ではなくて、むしろと友達で料理の得意な人が多かったので、最初から自分が料理の仕事をしようとは思ってなくて。でもちょうどその頃、自分の周りで会社を辞めて別のことを始める人が多くて。私もその後ずっとITの仕事をしたいかっていうと、それを目指して仕事をしていたわけではなかったので…。ずっと続けられる仕事で、自分で出来ることでなにかやりたいなっていう漠然とした気持ちと、主人がカレーでお店やりたいねって言っていたのもあって、じゃあ私がお店やるから、カレーを一緒に作ろうって感じになりました。」
信仁さんもまた、会社員である。料理関係の仕事経験が一切無かったご夫婦が、どのように創作的なスパイスカレー作りを学んだのかを伺った。
「カレーの作り方は、彼(信仁さん)が一回インド人の奥様がやっている料理教室みたいなものに習いに行って、それ以外は本とか食べ歩きして独学やってた感じです。前に住んでいた家が広かったので、友達を呼んでふるまったりという機会もあって、それでみんなが美味しい美味しいって言ってくれたので仕事に出来ればいいかなって。なので最初オープンしたての頃とは味とかもぜんぜん変わってきているかなと思うんですけど。」
「微妙に毎週毎週違う作り方をずっとしてて、でも材料はだいたい一緒なので味もだいたい同じような感じになるんですけど、やり方については試行錯誤しています。」
外食業界初心者であるご夫婦は、近隣の小さなお店から材料の調達をすることで地域との結びつきを持った。これは若い井澤さん夫婦にとって、単なるビジネス的な関係を超えた地域のネットワークを持つ上で重要な役割を果たしている。
「材料の値段や仕入れ方法も全く知らないので、材料の仕入れは、自分で近所の八百屋さんとか買いに行って、北口のお肉屋さんとかスーパーとかに買いに行ってるんです。多分普通の飲食店さんの仕入れとは全く違いますね。普通の家感覚なので。」
五年経っても、仕入れの方法はあまり変わっていないそうだ。
「ネットで買うものも増えてきましたが、基本的には食材は、スパイス以外自分で買いに行きます。自分で買いたいし。西荻窪は八百屋さんやお肉屋さんがいっぱいあって、どのお店もすごく良くて。中でも一番近くの神明通りの『小張(こばり)青果店』さんって八百屋さんでは、ずっと玉ねぎを買っています。お母さんが店番をされていたんですが、世間話をするのが楽しみでした。お店に食べにきてくれたり、お客さんに宣伝してくれたりもしてました。あと、北口の『とらや』さんでメインのお肉を買っています。そこはお父さんと息子さんで代々やっていて、お肉のことを教えてもらったり、お店の方も気さくで親しくしてくれて。そういうあったかいところです。私も初めて飲食店をやる不安もあるし、それまでは大きい会社に勤めてたので毎日何人もの人に会っていたのに、お店を始めたら急に誰にも会わなくなって寂しかったんです。なので商店街の方と喋るのが良くって。なので、玉ねぎは小張さん、お肉はとらやさんで買ってますね。あとスーパーにも行ってます。」
西荻窪のコミュニティに支えられながらカフェを続けてきた井澤さん夫婦。元々、二人で吉祥寺に住んでいたが、新しいお店の参入や駅ビルのリニューアルなどで賑やかになっていく街に次第に住みづらさを感じるようになったそうだ。
「前は古い店もたくさんあったんですけど、無くなって大きな街になってしまって。私たちが住んでいたのが賑やかなエリアだったので、休日にちょっとコンビニに行こうとしても、外に出るとうわっと人がたくさんいる感じだったので、もう少しのんびり暮らしたいなって。当時から西荻窪にはよく散歩で来ていたので、いいね、って引っ越してきたのが最初です。」
五年前、カフェを開くための物件を探していた井澤さん夫婦は不動産屋の知り合いだった大家さんを通して、西荻窪の二階建て物件へ引っ越した。カフェraccoonがあるのは一階、そして二階では井澤さん夫婦が自宅として暮らしている。
「自宅がこのお店の二階なので、カレーはお店で作っています。本当は(お店と自宅が)繋がっている方が良かったんですが、大家さんが別々にも貸せるようにしたようです。」
西荻窪では、しばしば、店主が所有する物件の一階で店を、そしてその上に住むスタイルの飲食店があった。しかしそうした店は次第に無くなり、今は賃貸物件で開業することが主流になっている。そんな中、井澤さん夫婦は賃貸物件の一階にお店を構え、二階で暮らしている。今となっては稀である、同じ建物で自宅兼店舗という伝統的なスタイルをとることの良さを伺った。
「楽です。通勤もないのが一番良いところです。ただ、切り替えが難しいというか、夜中まで作業してしまったりとかはあります。二階にリビングはあるんですが、私はお店(一階)で過ごすことが多いですね。彼(信仁さん)は、平日は一階をオフィスとして使っています。二階に仕事ができるような机を置く場所がなくて、このお店は平日が休みなのでちょうどいいのかなと思います。」
みちるさんは、信仁さんの平日のテレワークに差し障りのない範囲で、早朝や夜にカレーの下ごしらえをしているそうだ。このスタイルは、テレワークが始まった二年前から続けており、それ以前は、信仁さんが会社から帰ってきてからカレーを作っていたそうだ。
コロナ禍での営業
カフェでもあり、信仁さんのオフィスでもある一階のraccoonの営業日は月金土日。しかし、月金はテイクアウトのみで、イートインができるのは休日だけである。新たな売り方(テイクアウト)を始めたきっかけは、コロナだ。コロナ禍で苦戦していたraccoonにめざましい効果をもたらしたテイクアウトによる販売促進は、今でも続けられている。
「コロナの前は、営業が金土日だけで金曜も店内で食べれるようにしていました。今は、金曜日は彼(信仁さん)がテレワークで使っているし、金曜日に仕事が休みでランチに来る人は少ないので、月曜日と金曜日をテイクアウトの日にしました。」
特に、コロナによるパンデミックは、政府による支援を受けることが出来なかった小規模飲食店を厳しい状況に追い込んだ。
「夜の営業がないので、(営業時間短縮の)協力金は対象外でした。最初は、これは潰れるしかないと思ったけれど、彼(信仁さん)がサラリーマンで働いているのでなんとかやっています。それでも自力でなんとかするしかなくて、それまでやっていなかったテイクアウトを始めて、コロナの初めの数週間はテイクアウトだけにしました。」
また、コロナによって顕在化した個人飲食店の経営の難しさについて伺った。
「やっぱり何をするにも自分で決めてやらなきゃいけないこと。例えば雇われていれば売上がなかったとしてもお給料をもらえるから大丈夫ですが、うちは売上がなかったらやっていけないし、そういう面ではシビアです。ただ、自分が思ったことを自分でやっていきたい人はいいかなと思います。」
コロナの影響で未だに厳しい状態が続いており、売上はそれほど回復していないものの、テイクアウトを始めたことでより近所の人が利用する地域密着型のお店になったという。
「お客さんは減ったは減ったけど、逆にテイクアウトを利用してくれる人が増えました。今はもうテレワークも減っていますが、テレワークの時は特に増えました。自分で料理作るのが大変とか飽きちゃったとか、そういう人が利用してくれました。テイクアウトを始めてからお店に来てくれるようになったお客さんもいます。雑誌やインスタを見て遠くから来てくれる方も多かったけど、そういう方々は減りました。Hanakoに載ったときは女の子が来てくれたりしたんですけど、でもそういうのは一時的なものなので。それはそれでありだけど、コロナ禍以降は近所の人が来てくれるようになって、それで支えられているようになった感じです。」
コロナを経て、お洒落カフェ巡りが目的の遠方からのお客だけでなく、地元住民が立ち寄る憩いの場カフェとして確立したraccoon。駅から少し離れた場所にあるため、来客者は近所に住んでいる人が圧倒的に多いという。
「常連さんが多いかは分からないけど、毎週来てくれる方は何組かいらっしゃいます。定期的に来てくれる方もいて、すごく常連という人は数人です。」
小規模なビジネスによって形成されるコミュニティは、多くのお客にとって社交上の人間関係から逃避できるプライベートな空間でもある。よって店主は、お客さんとコミュニケーションをとることと、彼らに一人で静かに過ごす時間を提供することのバランスをとらなければならない。みちるさんはどのように近所に住むお客とコミュニケーションを取っているのだろうか。
「お客さんによりますね。話しかけてくれる方とは話せますけど、放っておいてほしい人もいるので、難しいですね。毎週来てくれていても、その方から何か言ってくれるわけではない人もいて。そのぐらいの距離感がいいという人もいるので。私自身も、好きでお店に通っているけど、それを店側に知られていると分かると恥ずかしくなって(お店に)行きにくくなってしまった経験があって。毎週毎週来てくれたら嬉しいので、もっと親しくなりたいというのはありますが、あんまり踏み込み過ぎないように気をつけています。」
自身の経験を踏まえてお客さんとの距離感に気を配る一方、常連のお客さんをありがたく思っているという。
「毎週この曜日にこれを食べて、この人は暮らしてるんだなって。お店をそういうふうな使い方をしてくれるのはすっごい嬉しくて。お店側からすると、その人の生活のサイクルの一部になれている気がして嬉しいです。」
東京のほぼ全ての飲食店で、パンデミックによる打撃へ適応する力が要された。夜間営業をするレストランは政府からの支援を受けられた。一方、カフェやランチ営業の飲食店はそうした支援を受けることができなかった。しかし、これらの店の多くはテイクアウトメインに切り替えるなど、経営スタイルを変化させている。井澤さん夫婦もまた、多くの経営者と同様に新しいビジネス手法を模索しつつ、現在はテイクアウトに力を入れながらテレワークに取り組んでいる。ポストコロナに向けて、更なる変化が見られることだろう。
raccoonは西荻窪の個人飲食店の中では比較的新しい存在であるかもしれない。しかし、神明通りの小さな飲食店の歴史を受け継いでいる。実はraccoonを構える物件は、以前「たぬき」という名前の居酒屋だった。みちるさんは、長年常連から愛されていたというその店の歴史にあやかり、「raccoon(たぬき)」という店名にしたそうだ。そんな西荻窪での繋がりを大切にしている店主が切り盛りするraccoonには、特に用事がなくてもふらっと寄ってしまいたくなるような暖かさがある。その暖かさが近隣住民を虜にしているに違いない。(ファーラージェームス・木村史子・矢島咲来 6月28日2022年)