三人灯(さんにんとう)は西荻窪の平和通りにある居心地の良い店だ。 一人で静かにお酒を飲んだり、本を読みながらくつろぐのには最適な場所だ。店の料理は無国籍?と言ったらいいのか…どこのものとも言い難い、しかし、いくらでも食べたくなる美味しい料理と、お客が飲みたいものならたいていは飲める。しかし、この小さなバーは西荻の住民運動の拠点ともなっている。オーナーは水越強(みずこし つよし)さん。山梨県道志村 (山梨県道志村)の出身だ。
三人灯のスタート
三人灯はこの場所に開店して今年(2022年)で十七年になる。水越さんに、まずは三人灯を始めたきっかけをうかがった。
「なんて言うんですかね…。理論経済やってたんですよ。要はマルクス経済学なんですけどで。」
「たまたま(大学に)入った年に、東大の名誉教授のマルキストの結構有名な人が東大退館して國學院に来て、その人が結局僕の師匠になったんです。その後に2000年くらいに違うカウンターアクションが起こって、それが、柄谷行人(からたにこうじん)とか浅田彰(あさだあきら)とか坂本龍一(さかもとりゅういち )とかが New Associationist Movementっていうのを起こしたんですよ。それに俺は飛びついて、卒論も結局それで書いたんですよ。そこで、資本に労働力売るなって言うから、どうしよっかなーって、就職活動しないで、で、大学院行こうかって思ったんですけど。で、一回その師匠が東大の大学院につれてってくれて、そしたらもう、フォイエルバッハみんな原語で、ドイツ語でスラスラみんなやっていて、『先生、俺、こんなのついていけないよ』って(笑)。『確かに君は大学院に行くタイプじゃないね』って。じゃ、どうしよっかなー、俺。なんかカウンターアクションで場を作ることにしようって、飲食店やろうかなーって思って。で、五か年計画で、二十七でやるって決めて、で、フレンチでひたすら芋を剥いたりとか。そいで、2005年に店はじめた感じですね。」
「最初一人で初めて、五年のうちに一緒にやる仲間を見つけようって、で、歌舞伎町の喫茶店のやつを一人ピックアップして、表参道の料理人をピックアップして、って感じで、それで三人で始めたんです。(今の料理人と同じ?)そうです。表参道のイタリアンで、彼バイトだったんですけど、できあがってる料理人と始めるつもりはなかったので、未熟だけどすごく味のセンスがいいなって思って。そいで、こいつだーと思って『絶対俺と働いた方がいいぞ』って誘って。で、浜松が実家なんですけど、浜松の両親のところに『息子さんを僕にください』って頭下げに行って。そいで一緒に始めた。男三人で、それが最初。」
「あくまで人が交通する、いろんなものが、本とか音楽もそうですけど、そういう交差するイメージでやってきて、そしてかつ、野蛮な、『腹減った』『のどが渇いた』みたいなのに応えられるのが、俺、飲食店面白いと思っていて、それで、あの、飲食店っていうパッケージにした。ほんとは物販にするか迷ったんですけど。本とかCD売ったりとか、思ったけど、自分の全力が出せそうなのは飲食かなーと思って、それで。」
水越さんの音楽と本への愛情は、店内を見ればよく分かる。カウンターに並んでいる、芸術的で思想的な本。そしてさまざまな音楽が店内で流されている。
店の名、三人灯の名前の由来はこうだ。
「経済学の基本も、あの、基本だったり、あるいは…ぼくが勉強したのはCapital-Nation-Stateって、そのトリニティー(trinity 三位一体)だったりとか、ま、飲食店も、農家がいて、我々がいて、お客さんがいて、とか、三人プレイヤーが必要だなーってんで、で、いろんな物事の基本は三かーって、ま、三人必要なんだなーって。それで、三人に、場のイメージが、僕、灯り(あかり)がともってるイメージがあったので、それで三人に強引に灯りをくっつけて三人灯って名前にしたんです。」
飲食店をはじめた動機も、店の命名にも、水越さんの見ている方向、ポリシーが見える。
三人灯が提供する料理
そんな三人灯で出される料理はどれもセンスが良く、それでいてほっとする味わいがある。材料の鹿肉や野菜の一部は、水越さんが月一回ほどのペースで故郷の道志村に帰り調達してきている。
「主に鹿ですね、鹿が獲れたら行くんです。うち使うのは雌の型のいいやつだけなんですけど。蝦夷鹿とは全然違います。やわらかいし、臭みも全然…。ま、シメ方にもよりますけど、もちろん。(野菜も?)はい、もちろん。この間はひたすら新じゃが掘ったりとか、そんなことやったり。実家だったり、その、村の。ま、みんな半農半Xみたいな感じなんで、なんか畑田んぼやりながら違う収入源あるみたいな感じなんで、うちの畑じゃないところに行ってまた収穫したりとかやってる…。」
我々が三人灯で食事をしたとき鹿肉のあばらの煮込みを注文したが、おっしゃる通り、やわらかく、臭みもなく、ほろほろとしてとてもおいしかった。
一部の定番メニューを除いて、メニューはよく変えるそうだ。水越さん曰く、「やってて飽きるし、週に何度も来る人がいるので」。
定番メニューは、人気の「アンチョビガーリックポテト」、鹿が手に入れば「鹿のあばらの煮込み」、季節によって中身が変わる「魚三点盛」など。
我々が店に行った、ちょうどその時のメニューでいただいたものを挙げてみる。「冬瓜と鶏の煮物」、「茄子の揚げびたし」、「あん肝ポン酢」、「根菜のから揚げ」…といった、名前を見てわかりやすいものから、「田舎風パテ」、「マッシュ里芋と生ハムの冷菜」、「揚げ芽キャベツ半熟卵とペッパーソース」、「長芋、くわい、蓮根の山椒和え」、「自家製ツナとクレソン、金柑のサラダ」、「南瓜のニョッキヴィオレマスタードクリームソース」、「ドライいちじくとレーズン、ナッツケーキ」…といったユニークでオリジナリティーがある料理。どれもとてもおいしく、同じものをおかわりしたものさえあった。
三人灯の一階はカウンター席。二階はテーブル席になっている。二階席は店員たちからは全く見えない。ここで食事をする客達は席に置いてある銅鑼やベルを鳴らし、店員を呼ぶ仕組みになっている。中でも銅鑼はかなりの大音量だが、なかなか楽しい仕組みである。
お客達
三人灯のお客は、二十代後半から五十代くらい。そして、三十代半ばから五十代前半がボリュームゾーンとのこと。うちわけは、半分が常連客、あとの半分はほぼ一見さん。男女比では圧倒的に女性が多いそうだ。
「みんなその、うちに来る世代?二十代後半から三十代くらいって、プライべートでもいろいろ変化がある歳じゃないですか。結婚とかいろいろあったりとか。ま、で、意外と流動性が。うちの店に限らず西荻自体が単身者が多いので、流動性が高い。」
流動性が高い町であるが、十七年前はまだ顔見知りが多かったそう。
「昔十七年前とかは、町中であいさつとかする機会多かったですよね。ほんと知ってる人ばっかで。十七年前と全然違いますね。その、アパート、マンションが圧倒的に増えたんで、その、ずーっと西荻に住み続けるみたいな人は昔よりずっと減った、ほんと流動的になっている。」
「やっぱ、自分の歳からプラスマイナス十ぐらいがボリュームゾーンじゃないですかね。私今四十四なんですけど。五十くらいから三十半ばくらいが一番多いと思います。うちはもう、女性が多いっすね。それも当初は俺は男ばっかのつもりだったので、こんな男くさいとこ。」
男性が集まる飲み屋を予測して始めた水越さんだが、当時のパートナーに「絶対女性が一人で来やすい店がいい」と口を酸っぱくして言われ、とにかく「女性が居心地がいい店を」、と考えたそうだ。その結果、
「ほんと女性ばっかになっちゃったっていうか。でま、常連さんは、カウンターに座る人は男性女性半々くらいですけど、全体は七:三くらいで女性ですね。」
とのことだ。
基本一人客はカウンター席、二人以上は二階のテーブル席を利用する。
「(女性が一人で飲みやすいところがあまりないが。)そうなんですよ。意外と女性一人って難しいんですよね。意外とすぐ話しかけてくる男性がいたりとか、なんか、意外とね、ないんですよね。(かといって高級なところは入りづらいですよね)はいはいはい。そういうまぁ、使い勝手のいいのがいいなと僕は思っています。」
乗り越えてきた危機
商売をしていればいろいろなことがある。三人灯にも十七年の間、いろいろなことがあった。店存続の危機を感じたこともあったそう。
「震災の後も物理的に店が潰れると思ったんですよ。外から見たらもうこんなんなってたんで。結構古いですからね。その、二時四十何分でしたっけ?で、最初お客さんを外に出して。当時はまだ昼やってたんで。で、外から『水越くんも外出ろー』って言われて、出たら、店がほんとこんななってて。もうホント、店がなくなるって。で一応店はなくなんなかったんですけど。でもその後の三月、四月、五月くらいまで、もうほんと、全然人も…みんなが外に出ない期間っていうのが。(自粛という言葉が巷にあふれた時期)そうですね。店潰れるわーって。そのときはなんとか、六月くらいにはもう戻ったのかな。」
「で、次のピンチがコロナでしたけど。まあ、でも、(乗り切れそう?)そうっすねー。あの、なんっすかねー。あの、いやヤバいなーっては思ってたんですけど。一気に(人が)来なくなって。ま、でもまあ、何とかしのげるかなぁと、潰れるまでは思わなかったですね。」
実は、コロナ自粛で店にお客が来なかった間は、地元のお客達のお子さんを預かったりもしていたそうだ。第一回の緊急事態宣言が発令された時は、西荻住民の中にも在宅勤務となった人が多かった。しかし保育所が閉鎖して子どもを預けられないため、子どもも在宅。仕事をするにはなかなか厳しい環境だった。そんなのお客の子どもたちを店のスペースを使って預かったので。
「人来ないから、場所遊ばしとくのもったいないって思ったので・・・」
「保育士さんが暇になったって言うのを聞いて。じゃ、それで暇な保育士さんがいる、預かってほしい人がいる、場所がある、で。三人とか四人とか五人っていう感じで。」
できないことを嘆くのではなく、お客、地域の状況を見つつ、その時できる自分たちにできる最善のことを、と、臨機応変な対応をとっていたようだ。
西荻を選んだ理由とは
こんな風に今は西荻という町にすっかりなじんでいるように見える三人灯だが、最初からそういうわけではなった。
「周りからは西荻は難しいからやめろとすごい言われて、なんでかなーと思ってたら、当時
僕みたいな外様ってのはほとんどいなかったんですよ。基本的には地元にゆかりのある方が商売をやっていて、つまり、よそ者に厳しい、と。割と目が行き届く町じゃないですか。町に関心が高い人が多いから、よそ者が来てもすぐ出てけってなっちゃうって意味で、そういう厳しさがあるっていうのは後でわかったんですけど。でも、あの、僕としては都内で何カ所か最終的に選んで、やっぱり、地下鉄の駅だと町の作られ方が違うじゃないですか。谷根千(谷中・根津・千駄木)とかも一応、文京区の方とかも行ったんですけど、そのなんか、掴めないっていうか、町が、つかみづらい。地上に駅があると、駅があって周辺があってってわかりやすい町の構成だけど、なんか立ち振る舞いが分からないと思って。で、中央線来たらやっぱほっとするわって。で、最終的に、阿佐ヶ谷、国立、西荻の三つに絞って、で、駅にひたすらぼーっと突っ立って、どんな人が住んでるか見て、あと、町にどんな本屋があるかも見て。」
「で、国立は昼の文化かなって思ったんですよ。で、まず違うなって。で、阿佐ヶ谷か西荻かで、で、一番僕ができることと町に求められていることのギャップが、西荻の方がギャップが小さいなと思って、最終的に西荻にしたっていう感じですかね。」
平和通り商店街会長に
そんな風によそ者として西荻窪にやってきた水越さんだが、現在は平和通り商店街の会長を務め、「西荻アピール」の主催者でもある。
なぜ商店街会長という役目を担うことにしたのかをうかがった。
「俺もなんでやってるのか…(笑)で、かつあの、西荻今二十三あるんですよ、商店街が。うちは九十何件で、うちの先だと四件(の商店街)ってのもあるんですよ。商店街なのに。高円寺が十ぐらいなんですよね、商店街が。それぐらい西荻はぶつぶつ(切れている)。北も三つに分かれてるんですよ。青梅街道まで。北銀座、なんとか、なんとか…って。女子大通りも一番街商店街、伏見通り商店街とかって。商店街が道路(拡張事業)に関して何のステートメントも出していないんですよね。これまで。それは、あの、ノータッチって。」
「いや、めちゃめちゃ影響あるんだから、ってゆーことを。商店街の連合会っていうのがあるんですけど、コロナで、その商店街連合会のミーティングもないので、あのー、そのブレイクスルーを一個できるかなーっていうので商店街会長引き受けたところもあるんですよね。」
商店街は行政から補助金などの助成を受けている。現実として、行政に物申すことには腰が引けるだろう。
「とはいえ、町づくりとか商店街の存亡にかかわる事態なのに、なんらコメント出さずに傍観しているっていうのが…。」
ちょっとここで、商店街、特に平和通り商店街は何をしているのかを詳しく聞かせてもらった。
「うちの場合だと、あの、なんですか、うち、商店街と自治会も兼ねているんですよね。あの、一般住宅の方も入ってるんですよ。俺はまあ、一軒じゃできないことをやるのが商店街かなと。」
「商店街って、実際の集客とか店を潤すっていうのはもう二十年くらい前に終わったらしいんですよね。それは俺もできないと思うし、それよりもなんかあったときのための支え合いの、機能として、ま、災害とかですかね、の機能の方が強いかなと思っています。高齢の商売人も多いので、なんかあったときのための支え合いのための、新たに会作るんは大変ですけど、もうすでにある商店街という横のつながりがあればというの。と、もう一つあるのが、商店街と教育機関とのかかわりが希薄になっているんです。あの、小学校とか幼稚園とか。子どもらになんかあったとき商店街が面倒見るとか、あの、と子どもらがコロナで面白いことがないからちょっとした何か子ども向けのイベントを商店街でやったりとか、ていうのが今俺が商店街でやりたいことっすかね。やれることっていうか…。ま、なんでこないだも七夕の飾りをやって、子どもらに短冊で何か書かしたりとか。ま、そんなのをしょぼしょぼやっているくらいですかね。」
「でもこの三年全くイベント関係が全くコロナで商店街でできることがなくなっちゃって。俺はやった方がいいと思うけど、俺以外年配の人が多いので、あの、ずーっとうちも歴代の会長って、地元の七十代八十代の方が。ま、ほんと、息子とかに商売任せてるとかいう方がやるポジションだったんですよね。でももう、あの、意外と俺ももう十七年やってるし、意外とその古株になってきて、四・五年前に役員みたいなの入らされたんですよね。で、それからちゃんと仕事こなしてたので、そいで今回、俺に、話が回ってきたっちゅうか…。『でも、あいつデモとかやるしなー』って、そういう不満はあったみたいですけど、まあ、しょうがねっか、あいつしかいないもんなって(笑)。」
自治も兼ねているということは、商店街+住民たち同士の交流や災害時の助け合いもするとうことだ。また、行政に住民の意見を届けるという役割もあるだろう。その組織の会長という立場で、再開発・道路拡張反対にデモという形で行動をしてもいいのかをうかがった。
「本当はあんまやってほしくないと思うんですけどね、みんなは。でもここの西荻の全体にかかわることだし。ここも一応あるんですよ、計画が。そうなんですよ。ここ(拡張が計画されている道路)が広がると、他の、ここだけ太くてあとは細いってバランス悪いから、それで、こっちも、こっちもってなる。(柳小路も再開発の計画がある)そうです、そうです。」
道路拡張の理由の一つに、消防車が入れるようにするため、いわゆる防災のためというものがあると聞いているが…。
「言ってます。そんなこと言ったら、あっちゃこっちゃ広げなきゃいけないのに。でも、ほんとにでっかい災害が来たときって、こっちって消防車救急車来ないんですね。それはもうわかってるんですよ。それはもう言われてるんですよ。基本的に都心の方に集中していくから。だからコンパクトにしておいて、横のつながり、人間関係があれば…がないと対応できないですよ。」
大きな災害が起きたときのことも踏まえて、商店街では自治会的な活動もしっかりしろということなのか?
「そうですそうです。だからその、まずは自分の住む地域に関心持ってもらうためにもデモやってるみたいなとところがあるんですよね。」
「あの、飲食…商店街は基本は物販がメインじゃないですか。本来。肉屋さんがあって八百屋さんがあって布団屋さんがあって、とか。昔はほぼ物販じゃないですか。でも、今物販が廃れて来ちゃって、その、ま、ネットショッピングが主になっちゃったからか何なのかわかんないんですけど。とにかく飲食店ばっかになっちゃったんですよね。西荻中が。うちもそうですけど。飲食って朝から働いて夜遅いじゃないですか。商店街活動に参加できないんですよ。だから、俺もそうなんですけど、自分の仕事の時間こっちに割いたりしてますけど、それをみんなに強いることはできないので、なかなか…。みんな参加はしてもらえないです。そうなんです…。そう、ほんとに飲食ばっかになっちゃったんで…。そうなんですよ。」
昔は商店街の中には肉屋、八百屋、酒屋、米屋、布団屋…などなど、生活に必要な店がほぼ全てそろっていて、商店街の中で小さな社会が完成していた。その社会の中で交流し合い、お互いに助け合うのは当然のことで、商店街という組織は当然の組織の形だったのだろう。しかし現在は、商店街の構成要因が飲食に偏ってしまい、過去と同じような組織を維持するのは難しくなっているのだ。
「西荻アピール」の発足
しかし、飲食店を営むものも、住民たちも、同じ西荻の町で生きているのである。自分たちの生活の基盤である地にもっと関心を持ってもらいたい。それが「西荻アピール」だと水越さんは語る。
「元々その道路拡張の対象になっているあの道路あるじゃないですか。そこの地権者の女性五~六人が最初動き始めて、それであの、酒房高井(しゅぼうたかい)って言う飲み屋さんがあるんですけど、どうやらその、ここに相談に行ったら?ってアドバイスされたらしく、で、2019年だったと思うんですけど。私もその道路の計画知らなくって、あ、そんなことになってるんですかって、じゃあ一緒に止めるための何かをしましょうっていう流れで、私と何人かで『西荻アピール』っていう。これはグループでもないんですけど、あの、個人の集まりだったり、ま、西荻の、それを拒否する意思表示をするということでそういう風に命名して、月一でミーティングみたなことをやり始めたのが三年前ですね。」
「西荻アピール」テーマは「Think Globally. Act Locally. 」だそうだ。「西荻アピール」の前身ともいえるような活動は水越さん自身で以前から行ってきている。
「その前から私が勝手に西荻でデモとかやっていたので。しょっぱな はやっぱり、あの2011年の、えーと、震災の後ですね。ま、その前から勉強会とか読書会とか、そういうのやっていたんですけど。」
「地域から、どう、地域の足りないところとか、あの、自分たちで、町であるとか、ちょっとずつこっちにこう、創造力の方取り戻すかって言うか。最終的に地域でなんかまあ、相互扶助みたいなことがあったらいいんじゃないかなぁって思って、じゃあまずはいろいろ勉強しようというところを入り口に不特定多数が交わる場として始めたっていうのがリーディングサークルとか、あの。それはもう店始めてすぐですね。2006年ぐらいから読書会とかは始めて。で、そうっすね、テキストを使うときもあれば、全然使わずにこういうテーマで話し合ってみましょう、ってことをやったり。そういうことをやっていって、2011年の後は、じゃあ、それの別形態でデモをやりましょう、みたいな感じでしょぼしょぼ少人数で始めた…。まあ、表向きは原発やだなっていうものですけど、主権者、当事者、みんな当事者だぞーっていう。俺たち当事者で、あんたたちも当事者で、自分のこととして引き受けることをしてみませんか?っていう、そういうことを自分が商売やっているところでやろうかなって言う…感じですかね…。」
しかし、この時の活動にも、西荻で商売をしている人たちはほぼ参加していないとのことだ。
「ほぼ商売人は参加していないです。はい。お客さんもうちもコアのメンバーとかは入れ替わっているので、昔とはだいぶ顔ぶれも変わりましたし。」
商売をしている者としては、デモに参加する、つまり、政治的な意思表示をすることで、お店の間口を狭めてしまうのではないかと危惧するのであろう。水越さんはどう思っているのだろうか。
「わかんないですけどね。僕はいまいち。それは何にも感じたことないので。」
西荻アピールスタート時のメンバーは本当の当事者達だった。
「(酒房高井)そこは地権者じゃなく地権者と親しい飲み屋さん。で、そこの彼女がぼくに相談したらいいんじゃないかってアドバイスしたみたいですね。その来た人たちは洋服屋さんと本屋さんとギャラリーとタバコ屋さん。商売人はその四人ですね。が、もろ、その、道路の地権者ですね。(主催者は?)ぼくです。」
そして、その後の主催者もずっと水越さんだ。その理由の一つは、デモを行うための根回し的な準備をスムーズに行うためだ。
「けっこうあの、警察の警備課ってところとやりとりするんですけど、まあ、面識あった方がスムーズなんですよね、申請が。それで、ま、誰が行ってくれてもいいんですけど、私が毎回。(ルートも決めなければいけない?)そうですね。あのー、けっこう限られていて、西荻でできるデモって。それで、ルート、何回か変えたんですけど、でも一回やっちゃうと、あの、既成事実を作れると、この間やったからいいでしょうってことになりそうなんで。それまではすごい、一回三~四時間とか交渉に時間が。ここ歩かせてくれー、いやこっちはダメだとか。(交渉は)警察とですね。(許可書をもらうのか?)ほんとはデモは申請したらそこを歩くのが建前でも歩けるんですよね。でも、警察の事情とか、地域の事情で、ま、荻窪警察が決めるわけじゃなくて、上の公安委員会がそこはダメだーって言ったら警察がダメでーすって言う、伝言ゲームみたいな、のではあるんですけど。」今年2022年のデモからは、同じように再開発問題に揺れる高円寺のメンバーも参加している。
「元々抱えている課題が再開発って言う同じ課題を抱えていて、でも今までお互い勝手にやれてたんですよね。僕は西荻でやってたし、素人の乱(リサイクルショップ・高円寺のデモの主催者)は素人の乱でやってたし。で、同じ課題があって、何て言うんですかね、お互いカウンターアクションやっているんで、ま、ぼくらも連携しなきゃいけないくらい現実が追い詰められているっていうことの表れなのかなって。で、うちでやるミーティングに高円寺のグループが来て、一緒にやっていきましょうって。それで今年の二月から一緒に連携するようになったんです。」
デモというと、参加者が厳しい顔でシュプレヒコールをしている様子を思い浮かべるかもしれないが、2022年に行われたデモには移動居酒屋があり、バンドが出演し、龍踊が披露される、など、非常に楽しいものだった。
「あれ(移動居酒屋)は高円寺グループが作って、で、四月の時にあの、『持ってっていいかー?』って言って、『もちろんいっすよー』って。高円寺のデモは、けっこう大掛かりなデモじゃないですか。サウンドカーが出て、あの、あれ、年に一回ぐらいしかできないんですよね。うちは身軽なんで毎月やれるんですけど。でも、だから、高円寺のグループでも来たい人は、一年に一回じゃもったいないから西荻にも参加するって感じですかね。(ステージもあった。高円寺の方が?)そうです、そうです。バンドとか。そうですね。祭りって言う感じで…。横断幕ですか?あ!あれか、あれは龍踊(じゃおどり)ですね。俺がやりたいって言ったんですけど、長崎からレンタルするの三十万くらいかかるって言われて、諦めたんですよ。借りようと思ったんですよ。そしたら、それを聞いていた方が、長崎出身の方が西荻で商売やってて、その人が、いや、鯉のぼりをアレンジして私が作るって言って、そいで鯉のぼりベースで作ったんですよ。あれ、俺やりたくて、銅鑼(どら)、買って、で銅鑼鳴らしながらこうやってやりたいなーって言ったら、『鯉のぼり土台で作ります』って。そいで、龍とあと、獅子頭もって。そういうお祭りみたいで。」(今回のデモに参加しているのは西荻の人が多いと思うか?)そうっすね、「自分たちの町の再開発を当事者である自分たちで考えよう。アクションはつながりを広げている。
「この間は最近は、立石(葛飾区立石)とか、同じく再開発の問題抱えている地域からも神宮外苑とかの人も結構参加してきていて、今後、俺も立石の決起集会に呼ばれていくんですけど、都内中の再開発って同じような理屈でやっているので、みんなで、こう、そこは連帯していこうっていう感じで。最近やっとこう都内中のアクションが繋がってきているというか。」
2022年杉並区長選挙
西荻窪の道路拡張計画がらみでは、今年2022年六月十九日に投票が行われた杉並区長選挙が大きな話題となった。2020年から十年間杉並区長をし、道路計画を進めてきた現職の田中良( たなか りょう)氏を破り、岸本聡子( きしもとさとこ )氏が当選したのだ。
「この区長選の時に焼き鳥戎がうちの作った区長選のポスターを貼ったのは画期的というか、そんな意思表示、戎がやったことなかったので、えー、やるんだと思ったくらい。」
「選挙ですか?我々二月から動いてたんで、まだ区長の岸本聡子が見つかる前の段階から、選挙結果は負けると思ってたんですよ、ずっと。何やっても勝てないって思ってたんで。別に選挙結果にかかわらず、俺らは再開発反対だから、とにかくあの、拒否をするっていうのをやろうって、俺は決めてたんで。それはみんなも賛成だったんで。ま、『区長が誰であっても西荻手ぇ出すなよ』ってつもりでいたところ候補が見つかったんで。誰?って言ったらその彼女の名前が出て。俺ぎりぎり知ってたんですけど、ミュニシパリズムってスペインとかイタリアの地域自治勉強している人がって。『そんな人誰も知らないよって。絶対負けるよこんなの。やめたほうがいい』って言ってたんですけど、でも、ま、(勝ちましたね)。いやほんと、前日とかは、来週からうちで(岸本さんが)バイトする話になっていたんですよ(笑)シンクタンクとか次の食い扶持あったんですけど、そんなのあんましたくないなーって。一度どっかでバイトして、あと足りない分はどうにかするから。御用聞きやって、あとは俺が家とか、空き家とか見つけてやるよっていう話してたんですよね。そしたら受かっちゃって。(岸本さんはベルギーにお住まいだったんですよね)そうそうそう。(夫は)アムステルダム…オランダ人なのかベルギー人なのか…。」
水越さんが初めて岸本聡子区長と会ったのは「住民思いの杉並区長を作る会(Twitter:https://twitter.com/hiroba2022)」に呼ばれ、話をした時だった。この時はまだ、区長選挙の候補者は未定だったそう。
岸本氏の区長当選により、道路拡張計画は中止になるのだろうか。
「いやいやいや。それがね、そんなことないですよ。今更やめられるかーって。原発も戦争も道路も、今更やめられるかーの理屈でやっちゃうので、やっぱ。」
実際に土地を売った人もいる中、中止となるとまた別の問題も出てくるだろう。現実はなかなか厳しいようだ。
「そんな簡単じゃない。ほんと、この、町づくりって言うんですか、地域自治って言うんですか、誰がプレイヤーなんだって。やっぱほんと、ぼくが今商店街会長とかやって行政とか関わる機会が圧倒的に増えたんですけど…。」
参加した行政主導の町づくり懇談会などは、外部コンサル司会で進められたり、地権者は呼ばれていなかったり…と行政のやり方に疑問を感じてしまったとのことだ。
「それで俺頭来て、なんか、場を乱すような怒ったコメントして場を壊しそうになったこともあったんですけど。なんかほんとに下らなかったんですよね。で、なんか、西荻のいいところを…グループセッションみたいなのやらせるんですけど、西荻の良さを出してください、とか、ありきたりなことが出てくるわけですよね。個人店が頑張ってるとか、歩いてて楽しいとか。そんなものとっくに知ってるし、それ今更上げてどうなんのって。で、今後の西荻の未来をみんなで想像してみましょうってやるんですけど…。そんなの何回かやって、書類ができました。これが西荻の今後の、未来ですって、で、道路広げて、駅前整備でって…。で、それを今年度からしっかりやってくってことに決まったんです。そのありかったってちょっとだめじゃないかって言って、今後こうだったらオレもう来ませんって。でも、ま、区長変わったんで、今後、ま、あの、そういうものの在り方もガラッと変わるかもしれないっすけど。」
「西荻アピール」のこれから
今後の西荻アピールはどう動いていこうとしているのだろうか。
「まあ、その、新区長の、岸本さんの出方も見つつ。行政がやってたタウンミーティングはよく考えたらこっちでやれるなと。地域住民集めて、この西荻どうしますかっていうのをやれたらいいんじゃないかなと。(岸本さんも?)はい、来てもらったらいいんじゃないですか?そういう、ま、行政指導の町づくりじゃない住民のあの、自治みたいなのをやってくかーっての、もういくつかアイデアはあるのでそれをもう、実際にどうやっていくか。足りないところを行政にサポートさせるような町づくりをなんか、今後やってきたいなーって。それが西荻アピールの今後。」
水越さんは冷静に淡々とお話されるが、そこには強い信念を感じる。西荻の未来は誰かが作ってくれるものではなく、住んでいる者たちで作っていくもの。この町に住む誰もが、町にとっていい未来を望んでいるだろう。西荻の町にとっていい未来とはどんな未来なのだろうか。水越さん達がつけた灯りは、そんな未来を共に語り合い創る空間を照らす。(ファーラー・ジェームス、木村史子、2023年1月25日)。