われわれは、これまでに多くの飲食店をインタビューしてきた。人気もあり、長く続いてきた店も多かったが、そこにある大きな問題は「今後、誰に跡を継いでもらうか」ということであった。店主の子どもなど家族があとを継ぐ店がある一方、家族に継いでくれる後継者がいない店も多々ある。 一方、一部の店は家族ではない人物に引き継がれている。 これをうまく実現させるにはけっこうな困難を要するだろうが、有名店を存続させるためにはなかなか有益な方法でもある。
西荻の、おでんで有名な居酒屋「千鳥」。こちらも長く続いてきた人気店である。現在の店主は沖陽介(おき ようすけ)さん。昭和三十年、1955年にスタートした千鳥の二代目店主である。先代の息子さんかと思いきや、先代の時にお店で働き始め、それが縁で店を継ぐことになったそうである。そのいきさつをうかがうことにした。
沖さんは、先代がどんな方だったのか、どんな経緯でお店を始めたのかから、柔らかい口調で丁寧に語ってくれた。
「昭和三十年だから1955年?先代がお店を始めた。もともと、その先代の親戚がここでお店をやろうとしてたんですよ。お店を作って、やる人がいなかったんですよね。決まってなかったところに、先代に話が来て、で、小田原に住んでらしたんだけど小田原から家族で引っ越してきて、昭和三十年から始めた。」
「大きさは、たぶん、広さは変わっていないと思うんですけど。一回聞いたら、カウンターの位置がこっちにあったとか。あと、ここに(道路側の小さな出窓)、焼き鳥を焼く…っていう話も。不確かなんですけどそういう話もちょっと聞いたことがあって(ここで焼いて売っていた)かもしれないっていうくらいで。で、ここを今の状態に建て直したのがちょうど2000年なんですけど、その前に、そこがちょうど水槽だったんですよ。先代のおやじさんが川釣りをすごく好きで、鮎とかをよく釣りに行って、川魚をよく生けすで飼ってたみたいで。昔は水槽があるお店って認識されていたみたいで。やっぱりおやじさんが釣ってきたときはお客さんに出してましたね。天然のね、釣った鮎を。それはすごいなーと。伊豆の方がたぶん中心だったと思います。」
理容師でダンスの審査官だった先代に、ベストタイミングに舞い込んできた千鳥開業の話
先代のお名前は小林くにとき(こばやし くにとき)さん。今も店の入り口に表札が掛かっている。
「小林くにときさんと奥さんはもう亡くなられてて。」
「元々は山梨の方で、戦争に行かれて、最初は、理容師だった、床屋さん。で、軍属でナウル島だっけ、南の方の島に行って、そこで士官とかの髪の毛を切っていたらしいです。戦争から帰ってきて、それで小田原に行っていたのかな。それとそこで床屋さんやってたのかな…。本牧(ほんもく)のほうに米軍の遊興施設に床屋さんで通っていたのか…多分床屋さんで通ってたんですね。でも検査で肺に影があるって言われてダメになっちゃって、仕事がなくなって、そのときにここでやるっていう話が。その施設でダンスとか結構やっていたらしくって、ダンスの腕前が良くって、師範の免許を持っていたって話は聞いてました。ダンスの先生を審査する先生だったんです。(ダンスホールで?)そうですね。米軍関係者だけが多分出入りするようなところで。小田原でダンスを教えてた。小田原から横濱の本牧に通ってた。」
手に付けた職を失ってしまった先代。だが、ちょうどそのタイミングで親戚から店をやらないかと言われ、千鳥開店の運びとなる。
「おやじさん、料理もしたことなかったみたいですし。板わさが何かもわかんなかったみたいで。いろいろ見様見まねでやっていたみたいな。山梨が出身の方なので、兄弟が十一人かな、いらしたんで、みんな中央線沿いで商売やってたんです。で、高円寺で結構大きな魚屋さん『甲州屋』をやっている親戚とかいたり、銀座の方でお寿司屋さんやってる人もいたって話もあるんで、たぶんそういう仲間のうちでいろいろ話を聞いて勉強したりしたんだろうなって。魚は高円寺に買いに行っていたって。だから、ま、顔が利くっていうか、親戚だから安くしてもらってたんじゃないかなって。(手が器用だったのかな?)たぶんそうですね。理容師さんだったし。とにかくね、生きる力が強いっていうかね。あと、なんだろう、すごくサービス精神が旺盛で、人を喜ばしたりするのが好きだっていうのが性に合ってたんだろうって。」
「僕がここに来た時に、2000年にちょうど来たんですけど、ちょうど八十歳。八十歳で改装して新装開店。まだやろうとしてたってところがすごいなぁって。百歳くらいまでやるつもりだったのかな。半年くらいして、『従業員募集』って書いてあって。多分忙しかったんでしょうね、お店新しくして。で、人が必要だってことで書いてあったんだろうって。」
現二代目、ふとしたことから千鳥の従業員となり、そして店主をまかされる
「僕は居酒屋好きだったんで、そのときちょうどふらふらアルバイト探してて、なんにしようかなーって思っていた時に『従業員募集』って貼ってあって、今の妻と一緒だった時に。『働けば?』って(笑)。」
「最初はほんとにホールっていうか、給仕っていうか、だけです。あと仕込みも少し、刻みものくらいやってて。おかみさんが料理作ってて、おやじさんが魚おろしてて。(おかみさんは)僕が来た時七十八くらい?七十九ぐらいかな?そのおかみさんとは僕が来て三・四年くらい一緒に働いてて、もうずっとそこに座ってる感じでしたね。あと、二十年以上働いていた女性がいて、その方も七十くらいだったかな。たぶん、女性として働くのは限界な感じで。ま、若い人が力、強いから必要だった、ちょうどはまったんだろうなぁと。」
従業員時代の沖さんは、特別に「修業した」というわけではなく、やりながら、見ながら、少しずつ料理の技術を身につけていったそうだ。
「ほとんど見てるだけですね。特に教えてもらったりはしてなかったし、作ったものを食べさしてもらったりはしてましたけど、あの、ほんとにもともと手をかけてないものがほとんどだったんですよね、メニューとか。反対に僕になってから徐々にじょじょに少しずつ変えてはいて。自分でも少しずつできるようになってきたんで。ぼくももともと料理の勉強をしていないんで。料理作るの好きではあったんですけど、やってるうちにって感じで。だからま、ほんとに素人のお店っていうか。おやじさんの時からそういう感じで。(魚料理のやり方とかどうやって学んだ?)全部自分で作って食べて、ですね。本ちょっと読んだりとか。ぐらいですかね。あとはうちも飲むの好きなんで、いろんなお店行って食べたり飲んだりしてるんで、『あー、こういうのいいな』とか、そういうところから。そういう意味では、飲んだり食べたりすることへの好きっていう気持ちが仕事につながったのかなって。」
しばらくは先代と一緒に働いていたそうだ。しかし、あるとき先代が病気になってしまう。
「結構肺炎みたいな状態になってしまって一ヶ月?二か月くらい入院している時期があって、それから戻ってこられたんだけど、店はちょっと続けられない。そうですね。2005年くらい。で、あの、ちょっとやってみるかって。でも、このお店やらせてもらえるんだったらぜひやらしてほしいって。で、始めたんですよね。それが2005年の…2004年かな?2004年の…今十九年目だから…2005年の四月に引き継ぎ、開店しました。」
千鳥を継いだ二代目。試行錯誤と縁に助けられ千鳥を経営する
先代と共に現場で働いてきた沖さんだったが、いざ店主ともなると苦労は多かったようだ。
「で、実は、始めてみたんですけど何もできなくて、初日におやじさんが(二階から)下りてきてくれて、刺身とか切ってくれて、ほんとに何もできないと思って。しばらく手伝ってくれてたんだけど、やっぱあるときから、やらせないとたぶん何もできないだろうな、って引いてくれて、でもいつもあの階段からこうやって見てた。心配だったんだと思います。お客さんも前々からのお客さんも来てくれてたんだけど、やっぱりぜんぜん、おやじさんの時に比べると少なかったです。半分以下かな…。やっぱりね、四年働いたとはいえ、顔は知っていたとしても信用されてないんですよ(笑)。ラッキーだったのが魚屋さんの『魚正(うおしょう)』さんがあったんですよ。(昔の)西荻マーケットってわかります?神明通りの今サミットがあるところ」。あの、肉屋さんとか魚屋さんとか花屋さんとか。そこの魚屋さんがすごくいいもの入れてて、おやじさんもそこで、高円寺の親戚が店閉めてからずっと買ってて。魚おろして、さばいたものを持ってきてくれる。だから店が始められたっていうのがあって。それがなかったらたぶんできなかったですよね。」
「(現在その魚屋は)なくなっちゃたけど、今サミット、スーパーがある通りの向かい側の路地を入ったところの『おみの』さんっていう懐石料理のその隣が魚屋さんのご自宅なんですよ。その家先で定食屋を、奥さんとだんなさんで魚屋さん閉めてからしばらくしてから始めて。そこもすごく評判良くて。でも急に、十二月だっけ、去年の。だんなさんが亡くなっちゃって。それで奥さんが一人でまた最近復活したんですけども、夏場はお休みしているみたいです。魚がおいしい定食屋さん。その、魚商さんっていうお魚屋さんなんですけど、そこでやっぱり仕入れて、ま、続けられた。さばいたものを届けてくれて。酢で〆たりはしてましたけど。(それで引き継いで今まで?)そうですね。その魚屋さんが辞めたときにどうしようかなって、ほんとに。そんときに魚屋さんに築地に連れて行ってもらって、仕入先をいろいろ紹介してもらって、自分で魚をさばく練習をして、で始めた。最初大変でしたけど。結局練習したって、やっぱり仕事して量やんないと。徐々にじょじょに上手になっていったんだろうって思いますね。」
こちらの名物「おでん」についてもうかがった。
「ここ開店した時からあったのかなぁ。カウンターもこう削って、あの(おでんを煮る四角い鍋が)はまるように。カウンターもこの木は(昔からのもの?)そうですね。あの、最初は塗りはなかったみたいで白木だったみたいで。」
「おでんはね、僕自身そんなにおでん好きじゃないんですけど、居酒屋としてやっぱり、すぐ出せる。つまみとして。温かいし。とてもいいのかなぁって。焼き鳥とか時間かかっちゃうしね。それも見様見真似で。教えてもらったりはしてないけど、だいたいこんな感じでって。でも(先代の頃)仕込みから一応は行っていたんで、そこから見れたのがよかったです。」
しかし、沖さんがおでんをやり始めた当初、なんとなくうまくいかなかったそうだ。
「おでんも、あの、最初はすえた匂いがするっていうか、新しいもの入れてるのになんかこうすっぱい匂いがするので、なんでなんだろうなぁ、ってわかんなかったんですけど、あるときお客さんが一人来て、おでん食べてって、帰り際に『おいしかったよ』って言って、『でもね、ちょっと火を強くして、塩利かした方がいいよ。』って。火が弱すぎたんですね。火が弱いと低い温度でずっとなので、(ちょうどすえた)匂いがする感じになっちゃってて。火をもっと強くしたら全部それがクリアになっちゃって。そう、『おでんの神様』って呼んでるんですけどね(笑)。一度きりしか来てないんですよね。たぶんおでんやっている方なんじゃないんですか、商売でやっている方なんじゃ…。ほんとにそれで全てがクリアになって。それすらもわかんなかった状態だったから。前の先代の人達がやっていたことをまねしてたんですけど、それもね、自分がこう、煮えすぎないように、すごく(火を)細くしたりとか。ほんとはね、もうちょっと気を使ってやりたいんですけど、なかなかこう、行ったり来たりもできないんで、たぶんほんとに火加減で味が変わってくる。忙しい時はどんどんスープついじゃうし。けっこう高い温度でずーっとの方がスープはおいしくなるんでしょうね。ただ煮えすぎちゃう。そこまでなかなかできないんですけどね。」
沖さんは笑いながら「おでんの神様が来た」と言ったが、なんとなく、沖さんのところには本当に神様が来たんだろうなぁという気になった。沖さんはそんな、縁が集まってくるような感じの人物だ。
「出汁は先代と同じようにやってて、ま、少しずつ改良はしてるんですけど、鶏ガラとあとは昆布(こぶ)と鰹の出汁を混ぜてる。練り物はスーパーで買ってくるものと、あと、僕になってから、豊洲で、築地に行っていた時に、練り物屋さんで割とうちでも使えるような値段帯の練り物屋さんがあったんで、そこで買うようにして。そこのがすごくいい味が出るんで。もともと築地にあって豊洲に今移ってるんですけど。そこ、豊洲に工場があるんですよ。」
「自分でだいたい、豊洲に月曜日と木曜日か、週二回行って、ま、魚とそういうもの、おでんのたねとか買って来たり。(豊洲は築地とは雰囲気が変わったが…)でもね、みんな優しくなりましたね。仲買の人達が。やっぱりお客さん減ってるのもあるから。もう、築地に行っている頃には、すごくつっけんどにされたりとか(笑)。でも今はみんなすごく優しく、買いやすく。(お客が減っているのはなぜ?)移転したのもあるし、あの、ネットとかで魚とかも直で買ったりとかする人たちも、若い人たちとかいるので。注文で配送で、そういうお店もけっこう多いと思うんです。あとは、個人客が少なくなったんじゃないですかね。(豊洲は築地に比べて入りにくくなったからか)そうですね、入れないよいうにしているので。商売の人は入れてくれるけど。ま、それもあるかもしれないですね。それで活気がちょっとなくなったような。誰かについていけばね、そんなに厳しくはないんですけど。」
千鳥での仕込みは夫婦でやっている。そして、店が開くと、調理スタッフとホールスタッフがいる。働いている従業員はみな知り合いからの紹介だそうだ。
「妻は仕込みだけ毎日一緒にやって。で、二人、あともう一人手伝ってもらうんで、週四日は三人で。いつも仕込みは。夜は四人。僕も含めて四人。(若い人たちがいつもいるが、アルバイト?)アルバイトです。そうですね。だいたい、中に調理の人が一人と外のホールの人が二人。(みんな長い?)そうですね。みんなよく動けるし、あんまりこう、何て言えばいいのかな、自分を持っているっていうのか、やりたいことがちゃんとあって、で、そのためにやってるけど、ま、稼がなきゃいけないから働いてくれてるんですけど。今まで募集をかけたことがないんです、張り紙とか。 (今どこも働き手が見つからないようだが)今ね、ちょっと人がいなくて、どうしようかなーって、さすがに募集掛けないといけないのかなって。今まではほんとにラッキーだったんだけど。紹介って、紹介する方も、この店に合うかな、って人を紹介してくれるんで、ほんとにいい人たちばっかりだったんで。(皆さん感じがいいですよね)ああ、そう(笑)。そう、媚びたりはしないんだけど、たぶん、なんだろうな、たたずまいじゃないけど、ま、いわゆるチェーン店のマニュアルでやるような感じじゃなくって、素がたぶんいい子たちなんだろうなーって。」
最後に、レシピについてうかがってみた。
「ないですね(笑)。レシピとか書いた方がいいんだろうなーって、レシピって大事なんだろうなーって思いながらもね…(ご自身もレシピなしでやっていますよね)ま、ね。」
とのことだ。
時代の変化とお客の変化
千鳥にはいまだに先代からのお客が来店するそうだが、やはり減ってはきている。
「今でも来てくれるお客さんもいらっしゃいますけど、ただ、ほんとに昔に来たほんとの常連さんっていうのは高齢になっていらっしゃるけど。やっぱり、昔から来ている方が店にいると、安心感がね、ありますよね。お店のことをわかってるし。それが一番大きいかもしれないけど。それはありがたいなーと思います。(ボトルがたくさん入っているが…)そうですね。でも、常連さんだからって感じじゃないですね、ボトル。最初の頃なんてほんとにもう、お酒って言われたらお燗したお酒だけ。ほぼ百パーセント。白鶴、瓶に入ってるやつ。これは剣菱なんですけど。これがもう、いきなり熱燗から飲んだりとか。そういうお客さんがほとんどだったので。(みんな熱燗?)熱燗。もちろんビールも。(でも今は変わった?)変わりましたね。今はサワー類が圧倒的に多いですね。(日本酒より?)日本酒もちょっとづつ。こんなになかったんですよね。僕が好きなんでちょっとづつ増やしているんです。ま、そういう意味ではおやじさんがやっていたときとは飲み物も食べ物の変わってはいますよね。野菜なんかほんとになかったですからね。ほうれん草とおしんこぐらいしか。トマト…。今、野菜ってなかなか食べれないですからね、お店で。だからできるだけ野菜とかは置くようにはしてるんですけど。野菜のメニューは必ずいくつかは置くようにしている。」
以前の常連客の中には、中央線を途中下車してくる人も多かったそうだ。
「割と途中下車する人多いですね、昔はね。今はどっからいらっしゃってるのかよくわかんないんだけど。昔はほんと、西荻より向こう側、西の方に住んでて、で、途中下車して、また電車に乗って帰っていくって方が結構多かったような。戻るのはめんどくさいけど、途中下車ってそんなにめんどくさくない。西荻の方達も、その裏の商店街でやっている花屋さんとか駅前の眼鏡屋さんとか、おやじさんの時はよく来てましたね。おやじさんの頃は西荻の方多かったですね。丸美屋って、ふりかけの丸美屋さん、麻婆豆腐の。そこが井之頭通りの方に本社があって、その方とかが来てくれるとか、あと、日通の自動車学校。あそこも研修生とか、日通の方とかが。あとは都税事務所がなんか改築しているときに荻窪の方に来てたんですって。割とこの近くっていうか。その人たちも来てたって話。僕が来た頃はホワイトカラーの人がほとんど。そういうサラリーマンの。圧倒的に男性です。女性はほんと、月に何回かいらっしゃるくらいで。ご夫婦でいらっしゃることもなかったですね。」
「僕が入ったころはまだ男性ほとんどでしたよね。入りづらさはあったんでしょうね。働いている人も結構年配の方だし、お客さんも年配なんで。僕も実はここ、お客さんとしては来たことなくて。」
「働く前からいろんな古い居酒屋さん、東京の、太田和彦(おおたかずひこ)さんって居酒屋のね、テレビ番組やってて本を書いたりしてるん人なんですけど、その人の本読むとけっこう古い…大塚の江戸一(えどいち)っていう、月島に岸田屋(きしだや)とか、古い店があって、そういう店が好きで。ここも、西荻に住むようになって、『ああいなー』って思ってたんだけど、お客さん見るとなんか入れなくって。そういう雰囲気でしたよ。(その頃のお客は)もう五、六十ですよね、みんな。ある程度余裕があるような人がいました。」
沖さんが昔の店内を撮った写真を見せてくれた。
「ちょうどね、ゴールデンウィークに上の倉庫を掃除していた時に、アルバムが、店の大家さんのアルバムが出てきて。ちょっと…これがおかみさん、先代のおかみさんで改築する前のですけど。これにする前の新装の時。これがおやじさんです。これがそうです(お客さんが飲んでいる写真)こういう感じだったんです。これが厨房。今座ってらっしゃるところが…。えっとねー、二十年前だから…四十年くらい前。昭和四十五年ですね(みんなネクタイをしている)そんだけは覚えてますね。」
昔、ドラマや映画で見た、サラリーマンが大勢飲んでいる正に「昭和の居酒屋の風景」である。
そんな昭和の風景とは変わり、令和の今、お客は男女半々となっているそうだ。
「ほんと(男女)半々くらいになっちゃって。早い時間はね、割と年配の男性の方が多いんですけど、遅い時間は若いカップルとか。」
「コロナの影響かどうかわからないんですけど、とにかくカップルが増えた、若いカップルが。三十代ぐらいの、結婚する前くらいの、か、結婚してまだ子供がいらっしゃらないようなカップルが。カップルの方が多いかもしれないですね。ある程度収入もある、で、外で外食するのが、ま、日常で。なんとなくここ使いやすいのかな。落ち着いて飲めるっていうか。ガチャガチャそんなにしてないし、うるさくないような。」
昭和の時代、会社帰りのネクタイ姿のサラリーマンが熱燗で一杯やっていた様子とはかなり変わっているようだ。
2023年五月、日本ではコロナが二類感染症から五類感染症に移行となった。それに伴い、これまでの厳しい制限が緩和された。飲食店は特に厳しく営業のやり方や時間などを制限されてきたが、それも緩和された。五類移行後、千鳥の客足も順調に回復してきているそうだ。
「うちの店はそうですね。コロナでは、明けてからの方がちょっと忙しくなった。人数を減らしてるんですよね。席数はカウンターで四つ少ない状況。席数も違うし、ま、時間短縮もあるし。席はコロナ前は十七席、カウンター。今は十四。(戻さない?)ここに三席あったんですよ。(入り口入ってすぐのカンターの席)なのでなんか落ち着かないのかなーって。(コロナの間にみんなデイスタンスに慣れてしまったので)ぎゅうぎゅうっていうのはなかなか…。あと、やっぱり、あの、今忙しいんで、あえてちょっと。あの、対応できなくなっちゃう。夜のお客さんはだいたい一時間くらいで。いらっしゃって一時間半くらい。平均したら。もっと早い方は早いし。」
古い写真でみる昔の千鳥とそのお客、そして西荻の町の変化
沖さんは、また、店の古い写真を見せてくれながら、当時の店のことを話してくれた。
「ここにテレビがあって。(チャンネル式のテレビ)そうですね。テレビもね開店の時からあったんです。あの、昭和三十年頃に開店した頃はたぶんみんな家になかったころで、外にあふれてたって、テレビを観に来る人達で。これがその昭和四十五年くらいですね。この看板がそのまま。ねぇ、いい感じですよね。ランプがあって。(貴重な写真)ほんと、僕も始めて見て。おやじさんがダンスの先生だったんで、すごくしゃれてて。ほらこれ。すごくおしゃれだったんですよ。やっぱり。これは新装開店した前の店の状態です。一番最初のときのここ。」
「この写真すごいですね。これを見てやっぱ、店の歴史が。 (現在、西荻の店は)結構多いですよね。どんどん増えてますしね。この通りも僕が来たときは夜開いているお店は二・三軒しかなかったですよね。二十年前ですね。お寿司屋さん、光寿司っていうお寿司屋さん、あとは夜やっていたのは西海(さいかい)さんっていう居酒屋さんがあったんですけど。あと焼肉屋さん。それしか。(この通りの他の店は?))洋服屋さん、古着…古着っていうかえーと、仕立て直したりするような。あとは、薬局か。あと、写真屋さん。そうですね。あとは初音さん、ラーメン屋さんとか。」
「(柳小路は全て飲み屋だった?)そのときはやっぱり昔からやってるおばさんとかだったんだけど、僕が働き始めてからちょっとずつ若い人がやり始めた感じかな。ハンサム食堂とかね。どっちかっていうと古本とかアンティーク。町が変わりましたね。ずーっと商売やってた方々が高齢化してね、誰かに貸すようになったんでしょう。テナントが空いて若い人が入りやすくなって。吉祥寺よりも安かったから。飲食店も始めやすかったんでしょうね。」
千鳥の店舗も賃貸だそうだ。建物自体、先代家族の住居兼店舗だったため、先代のご家族から借りているとのことだ。
「もともとは借りていたみたいだけど、あるときその地主さんが売ってくれたみたいで。この全部、この一帯の人達に。僕は家賃を払っている。僕は経営をしている。」
我々が、ほんとうにおもしろい縁でここにいらっしゃるのですね、と言うと、
「ほんとですよね。」
と、沖さん。自分で新しい店を作るつもりはなかったのかとうかがうと、
「僕はそれしかできなかったっていうのもあって、僕は修行してるわけでもないですし、まさに何もできない状態だったけど、おやじさんの仕入先だとかから始められて、徐々に徐々に技術も上がっていって、お客さんも上がっていって、という形でこう、なんだろうな、とてもほんとに、いい形だし。恵まれてたのかなーって。そうですね、ま、縁なのか。」
とのことだ。
たまたまいい縁に恵まれたのか、沖さんに縁を呼び寄せる力があるのか、それはわからないが、沖さんが千鳥という店に「すっとはまった」という印象を受ける。店の力なのか、人の力なのか、それもよくわからないが、「長く人気店であり続けて、これからも生き残っていく店のかたち」の一つなのだろう。
多くの人気店が遭遇しつつある後継ぎ問題。店にも店主にもいい形で後継ぎが決まるのはなかなか難しいことだろう。それを「縁」と解釈するか、それとも「人脈を築く才能がある」と解釈するかは別として、沖さんが従業員からスタートし成功していた経営者を引き継ぐまで、大変な努力をしたことは明らかである。沖さんの話をうかがうにつれ、タイミングと信頼の二つがあったと感じる。 そして、「千鳥」という店のブランドも大きな役割を果たしていただろう。 西荻でも多くの名店が後継者危機に直面している。 家族の誰かが後継者となる店がある一方で 千鳥の隣にあった老舗「コーヒーロッジ ダンテ」のように後継者不在で閉店を余儀なくされる店もある。 そんな中、千鳥は、「縁」と「なんらかの力」によって、新しい店長のもとで経営を継続することができた例だと言えよう。(ファーラー・ジェームス、木村史子、2023年12月25日)