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祖父の代からの家業を引き継ぐ



西荻窪で、第二次世界大戦まで歴史を遡れる飲食店は数少ない。その当時、西荻に外食する店はもちろんあったが、それらの多くは現在残っていない。営業に幕を下ろしてきた店にとって、戦争による建物の崩壊、時代の中でのお客の嗜好の変化は閉店の一因にすぎず、幕引きの一番の原因は後継者問題が大きく関わってきたように思える。幼少期から両親の重労働を見てきた子どもたちは、家業を継ぎたがらないことがよくある。現在、この西荻地域ではいくつかの飲食店は二代に渡って続いているが、三代以上続いている店を見つけることはかなり難しい。そのうちの一つが、「そば処 田中屋」だ。JR西荻窪駅から九百m離れた場所、東京女子大学に最も近い商店街に位置している。現在のオーナー清水康智(しみず やすとし)さんに、家業の経営をどのように続けてきたのか、そして変遷する地域への彼の展望について、我々はこの日インタビューした。



祖父の代からの家業を引き継ぐ

そば処 田中屋は昭和十三年に清水さんのお祖父様によって開業され、清水さんで三代目。二代目であるお父様は引き継いだ後の今日までもお店を手伝っているそう。ここ西荻地域の蕎麦ビジネスに八十五年以上もの長い歴史を築いている。

つまり第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、両大戦間期に起こった急速な東京都市化の時期に、清水さんの家族は西荻窪でお店を開店したことになる。

店名にもある“田中”は彼らの名前ではない。百年以上前の上野の蕎麦屋からとったものである。

 

「私の祖父が、上野の方のお蕎麦屋さん、“田中屋さん“ってところでお仕事してて、そっから暖簾分けって形でこちらにきたそうです。」

「なぜ西荻でお店を開いたのかはわからないですね。ここら辺は、女子大があったのと料亭があったそうです。当時、この先の飛行場(中島飛行機東京工場)の偉い人たちが料亭に遊びに来るっていう形で。駅から離れてたんですけど、ここら辺は商店街的な感じにはなってたという話は聞きました。飛行場の人の接待とかでこっちの方に来てたっていうのは聞いてますね。当時は出前が多かったらしいですね、ご近所さんの。自転車でやっていましたが、今はオートバイで。」

 

後継者不足により事業継承ができず、家業をたたむケースは多い。田中屋の三代目である清水さんに、継いだきっかけを伺った。

 

「兄がいるんですけど、兄はやらなかったんですね。本読む方が好きで。で私はなんとなく、料理とか物作るのとかあんまり嫌いじゃなかったんで、そのまま。あとは地域が結構楽しい町で、ご近所付き合いとかが好きで、まあいいかなと。」

「二十二歳で大学卒業して、一年だけ別の(世田谷の)お蕎麦屋さんで勉強しまして、二十三、二十四歳くらいから実家の方で働き始め、今五十歳になります。

(それ以前に実家で修行は)してないですね。たまに配達のアルバイト?お手伝いしたぐらいで、それ以外は自分の好きなアルバイト、ファミレスとかでずっと働いてたんですけど。」

 


変遷する地域

「西荻ではチェーン店よりも個人店が多い。これは昔も今も変わらない。」と、語る清水さん。しかし長い間西荻に住み、同じ場所で営業を続ける中で、店周辺の地域の様子は大分変わったそう。特に昔からあった店はなくなり、住宅が次々に建設されているようだ。

 

「生鮮三品(魚・肉・野菜)とあとお蕎麦屋さんが減ったっていうのは感じますね。昔はもっとたくさんありましたね。駅からこの店までの間に蕎麦屋さんが五軒とか…今は一軒もないと思うんですけど。」

「八百屋さん、肉屋さん、魚屋さん、そういうのがなくなりましたよね。肉、魚、八百屋はこのちっちゃい商店街の中でまかなえたんですよ。目の前八百屋だったし、こっちにちょっと行けば肉屋さんだったりとか。もう今は無くなっちゃって。大きい範囲で見ないと店が今はない。」

 

「ここら辺だと、以前にあった店舗は住宅になるのが多いですね。ほぼそうかな。でもテナントのビルはそのままテナントで残って、飲食店が入る感じ。この状況は仕方ないですよね。お店構えるにはそれだけ売り上げなきゃいけない。」

「あと無くなってるお店はやっぱり跡取りの問題もありますよね、継がなかったみたいな感じで。」

 

もともと一つだった土地の細分化により小規模住宅が増えていくのは、都市近郊でよく見られる光景だ。これにより人口が増加、町の風景も変わっていく。

 

「昔の大きい家がね、売り出したらそれが四つに五つにどんどん小さくなってきて。そこに人数だけは入りますからね(笑)。密度は濃くなりますよね。」

「同級生で(西荻に)残ってるのはほんと一割もいないと思うので、やっぱり新しい人たちでどんどん町が循環していってる感じではないでしょうか。」

 

また人手不足、さらにコロナの追い討ちにより、かつての商店会の活動も衰えてきているそう。

 

「以前は結構地域活動をしてたんですけど、まあ仕事が忙しく、それほどお手伝いはできてないです。商店街の会合って大体、夜の七時、八時からとかなんですけど、飲食店の方はそれが一番ピークですから、やはり出れないですよね。

この商店街も盆踊りとか、御神輿担いだりとか、結構色々やってたんですけど、もう全然コロナ系で…。あとはコロナのきっかけと、(商店会に関わっていた)人がちょっと亡くなったり、引っ越したりとかして。もうやる人手がいない。」

「西荻の商店街みんな御神輿持ってるので、コロナ前は大人の神輿も夜出してたりして。でも、それもいろんな商店街がこう抜けて抜けてって。」

  


家業の経営と、幅広い地域交流

二十代前半で実家の家業を継いだ清水さんだが、お店の経営で一番大変なことは“長い労働時間”だそう。早朝六時頃から仕込みを開始し、夜の営業、そして締めの作業を含め二十二時くらいまで。ほぼ一日をお店の中で過ごす。

 

「六時から八時までおつゆを作る仕込み、それに時間がかかるんですよね。でも鰹節とかを茹でてる間って三十分ぐらいあるんですけど、そこで元気な時はウォーキングしたり、ジョギングしたり。それでコーヒーをちょっと飲んだ後ぐらいから、そばを一時間半くらいかけて作って…。残りちょっと細かな仕込みをして、十一時から営業。で、十五時が昼営業のラストオーダー。その間に夕飯の賄いをちょこちょこ作って…。」

「材料の買い出しはスーパーも使いますし、駅の方の八百屋さんも使います。休憩時間には買い物行ったり、銀行行ったり。それで十七時から夜の営業が始まって、二十時まで営業し、そこから片付け。片付け終わったら伝票計算。毎日そんな感じです。」

 

田中屋は毎日営業。日々のエネルギーはどこから来るのか尋ねた。

 

「営業後に飲みにいくことです(笑)。商店街の友達と飲んだり、地域のお父さんたちと飲んだり、蕎麦屋さんの仲間と飲んだりとか…。」

「お蕎麦屋の仲間は月に一回の集まりで西荻のどっか居酒屋さんでお酒飲んで。でも大体“養老乃瀧”なんですよ。」

「地域のお父さん方はうちの店に集まりに来るんです。みんなコンビニで買ったものを持ち寄って、ひたすら二十四時くらいまで飲む。“おやじの会”っていうのを作ったんですね、小学校のお父さん同士で。その初代の会長やってたんで、そのまま十何年も関係が続いている。みんな二十一時半とかに集合するんですよ、金曜日、会社終わってから。居酒屋さんとかは人数決まってないと予約できないじゃないですか。(飲み会は)行けたら行くって人ばっかりなんで。だから『いいよ、うち使って。』って。そこから色々ね、遊び行くグループも生まれたりして。」

 

“お店の経営は大変さと楽しさの掛け合わせ”、と語る清水さん。地元で経営し続けることで古い繋がりが続くことに喜びを感じるようだ。

 

「魅力もありますけど、大変なこともいっぱいあります。でも一番楽しい瞬間は作ったものへの反応がすぐお客さんから返ってくるところですかね。あとは、お客さんとの対話ですかね。それと、仕事してるんで昔の友達とかとの接点も切れないんですよね、向こうから来てくれるんで(笑)。子どもが小学生の頃の親のネットワークもずっと続いてて。そういう仕事以外の地域としてのコミュニケーションも取れるのはいいです。」

 


進化し続ける田中屋の蕎麦と料理

田中屋では、蕎麦粉から自家製である。手作業と機械を組み合わせながら毎日一時間半をかけて完成させ、蕎麦のつゆも毎日とる。また蕎麦以外の商品は、創業時からのものも残しつつ、時代の変化、お客のニーズに合わせて少しずつ変更も加えてきたそうだ。


蕎麦と蕎麦つゆ作りは、毎日の作業で一番重要な役割を担う。

 

「蕎麦とおつゆは独自のものです。三世代、全員違う作り方だと思います。私が店継いだ時ぐらいですかね、お客さんが『ちょっとおつゆを薄くして』とかって、結構要望多かったんです。だからだいぶ薄めましたよね、徐々に徐々に。やっぱ健康志向になって薄くなってきてますからね。父と比べてもだいぶ変わったと思います。」

「ある程度味覚って時代とともに変わると思うので、それに合わせて。お醤油自体もみんな濃口醤油で、おつゆを作るんですけど、今はそれが薄口醤油ではないんですけど、似たような薄くなった醤油、ってのがあるんですね。そういうので作ってるっていうお蕎麦屋さんも増えてますね。全体的にそういう流れになってきてるかなと思いますね。」


田中屋では、店内と出前では蕎麦の配合を変えている。

 

「蕎麦粉はうちで石臼が勝手にこう動いてくれるので、すりたての粉を提供できる。だからまあ香りはいいのかもしれないですね。粉を仕入れて作ってるお蕎麦屋さんよりは、いいのかもしれない。」

「あとお店で出すお蕎麦と、出前で出すお蕎麦はまた配合を変えて作って…出前のは伸びやすいんで、小麦の量を増やすとかして。出前でもちゃんと蕎麦として食べれるようにしたいので。こだわって十割とかの蕎麦を持って行っちゃうと、(宅配したお客さんが食べる頃には)箸で掴むとボロボロになってしまうので。出前はおつゆも変えてます。店内は、蕎麦粉が八割。出前は、蕎麦粉が六割。この二割の違いで全然違います。」

 

一番人気のメニューは“今週のおすすめ御前”だ。

 

「“今週のおすすめ御膳”っていうご飯とお蕎麦のもので、週替わりで内容が変わるんですけど、それがやっぱり一番人気で昼と夜、通しで出してます。それ最初作った時、保健所さんとタッグ組みまして、栄養バランスの良い御膳っていうのをコンセプトに栄養指導してもらいながら一緒に作ったりして。」


創業時以来、時代の中で人々の嗜好も変わり、それに合わせて田中屋でも多くのメニューが誕生し、またなくなっていった。

 

「創業時から同じものはカツ丼、天丼、鍋焼きうどん、とかっていうのはあります。カレー南蛮とかも。」

「昔はあったが現在までになくなったものでは、“花巻”っていうのがありましたね。あったかいお蕎麦なんですけど、海苔を散りばめて…何で花巻っていうんだろう。多分、海苔が散らばっただけのお蕎麦なんですけど、あったかいお蕎麦です。美味しいことは美味しいんですけど、まあもう出ないからやめましたよね(笑)。老舗のお蕎麦屋さんにはまだ残ってるんじゃないかなあ。」

「あと、昔はラーメンもやってましたね。なぜやめたかっていうと、蕎麦湯が飲めないんですよ、ラーメン茹でちゃうと。黄色くなっちゃうんで、お湯が。ラーメンって黄色いエキスが入るんですよね、麺に。それが茹でるとお湯に出ちゃうんですよ、それで蕎麦湯の香りも何も無くなってしまうので。まああとは作業工程も増えますからね、だからやめましょう、と。私がお店に入る前にはすでにやめてましたね。」

 

今やSNS映えが顧客のニーズに与える影響は大きい。これは田中屋のような地元の蕎麦屋でも集客のために必要な戦略だ。

 

「現在はやっぱ作るものは手の込んだ、見栄えのいいものにするようにしてます。昔はお腹いっぱいになれればいいっていう、そういうのもあったと思うんですよね。今はせっかく食べるんだから見た目がいいものを、ってところがあると思いますね。

 

ニーズ調査には、他のお店に食べにいくこと以外にSNSもチェックしている。

 

「最近はよく食べに行ってるんで、他のお蕎麦屋さんのメニュー見て、あーこういうの受けるんだな、とか。あとはSNSを見たりしてますね。うちでこのメニュー持ってきたらどうかな、って。でも売れない時もありますよね(笑)。うちの地域はやっぱりダメなんだって。まあ試しながら…。」

「でもヒットした時は嬉しいですね。それはお客さんの反応から分かります。リピートしてくれれば(笑)。常連さんは、毎回新しいものを食べてくれる人が多いんですよね。反応を見て、もう一回食べてくれれば、よかったのかな、と。」



地域のお客

田中屋は駅から離れている分、西荻を訪れた人がふらっと立ち寄るようなお店ではないかもしれない。しかし、地域の人にとっては毎日でも通う“いつもの蕎麦屋”だ。

 

「うちの辺だと遠くから来る人はいないと思うんで、平日も土日もほとんど地元の人です。駐車場もないんで、みんな歩いてくるなり自転車なりで。平日ですと、ご近所のお一人で来る人と大学関係の人。あとは地域の工事とかの人。土日になると、ファミリー層が多くなって、ファミリーやカップルやそんなのが見えますね。

あとは仕事終わりにくるお客さんは結構多いですね。単身の方とかお一人でいらしてますし。あとはお子さんとお母さんとか、小さいお子さんとパパだけとか、保育園にお迎えに行ってそのまま食べにくるっていうパターンが結構多いです。どっちか今日いないんだろうなっていう(笑)。」

 

「客層はどこってないですね。昔は本当に年配の方ばっかりだったんですけど、最近は若い人が多くて。女性だけとかカップルだけで召し上がりにくる方がすっごい増えてて。それは他のお蕎麦屋さんとおしゃべりしてても、最近若い人が来るようになったよねっていう会話は増えましたよね。」

「(男女比は)昔は男性が多いですね。今はもう本当どっちとかないですね。働く女性が増えたのもあるんじゃないですか。」

 


コロナの影響

珍しいケースだが、田中屋では長年築きあげてきた地域との繋がりによって、コロナウイルスの影響が少なかったようだ。またパンデミックにより需要が増えたテイクアウトのサービスにも出前を行なっていたため、すぐに対応できた。

 

「まあ行政の指導通りの時短要請とかはしましたね。でもその時は出前があったので、あとテイクアウトもやったりして、そんなに売り上げは減ったりはせず横ばいで。」

「プラスチックの器も、結構前からお年寄りの要望が出前の時にあったんですよね。お店の瀬戸物の器は重くて受け取ったりするのが大変ってお客さんもいて…プラスチックの使い捨ての器っていうのを結構前からうちは出前で導入してて。そういうノウハウがあったので、結構すぐにテイクアウトができたんですよね。」

 

そば処 田中屋は、ここ西荻で八十年以上続く老舗の蕎麦屋だ。時代とともに、店の料理もお客もずいぶん変わった。多くの家族経営の飲食店にとって後継者問題はつきもので、田中屋も例外ではない。しかし清水さんご自身、彼の二人の息子さんや他の誰かにお店を継ぐ意思はなく、田中屋は自分の代で終わりだ、と語る。駅から遠く離れたこの商店街は、観光客は見つけづらく、駅周辺ほどの人通りもない。また、お店周辺の地域は大きく変化している。昔ながらの小売店は消えつつあり、その跡地には小規模住宅の建設が進んでいる。だが、田中屋は現在も同じ地で精力的に経営しており、地域の人に愛されている。お店の強みについて清水さんはこう語る。

「あんまないですよ(笑)。そんな一番になろうとは思ってませんので。当たり前の仕事を当たり前にこなすのが大事だと思ってるので。特別良い材料を使うとか、特別な良い技術を使うとかではなくて、まあ普通に、可のものを作り続ければ。逆に可のものをずっと作り続けるのって難しいことだと思うんですよね…。」

地域の人々の日常に存在するお店に、この日我々は出会った。(ファーラー・ジェームス、下岡凪子、木村史子 5月11日2024年)

 

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