大きなけやきと共に人とつながるカフェ
西荻窪の駅北口を出て十分ほど歩いたところ、住宅街にある「坂の上のけやき公園」。そこのど真ん中に立つ大きなけやきの木。環境省の巨樹・巨木林データベースによると、樹齢約二百年、幹回り五五〇センチメートル、樹高二〇メートルの巨木である。実はこの木、2008年に切り倒されることになっていた。
この大けやきを眺めながらコーヒーや食事を楽しめるカフェがある。「坂の上のけやき公園」と道を挟んで真正面にあるカフェ、アトリエカノンだ。このカフェを中心として、樹齢二百年のけやきの木を守る活動が行われたのだ。オーナーは山中 啓倭子(やまなか けいこ)さん。私たちはその経緯をうかがいにカフェを訪ねた。カフェが中心となり草の根の環境運動を推進した経緯だ。
山中さんが生まれ育ったのは、カノンがあるこの場所だそうだ。
「あの、祖母の代から。関東大震災で横浜にいて、こちらの方に移り住んで約百年ですね。」
「カノンの前のお家、普通の、日本的な二階建てのお家に住んでて、で、その時からこのけやきの木は当たり前のようにあって。ただ、あったと言っても建物がこうあった。」
その当時、けやきの木は個人の所有地内にあった。今のように公園の中にすっくりと立ち誰からもよく見える状態ではなく、高い塀に囲まれていたそうだ。
「はんば(飯場)小屋ってわかりますか?で、材木置き場と、トラックとかが出入りしたり、洗濯物が干してあるようなそんなイメージです。実際この壁って言うのがすごく高くて、木が見えないぐらいの高さの塀がずっとあったような状態で、子どもの頃から。地元の人だと当たり前にあるけどおっきな木だなーっていう認識くらいで。あとは、一般の人たちが、こんなすごい木だっていうのをダイレクトにわからない感じ。壁で。角度変えると、おっ、ていう感じですけど。人の敷地になっているからずかずか入りにくいですね、という感じの存在だったんです。」
山中さんが二十六歳の時に今は亡きお母様が、住んでいる家を改築してカノンにした。
「亡くなった母親がですね、漠然と娘時代から喫茶店をやりたいって思ってたんですね。私はコックの修行をしていたので、漠然とまあ、レストランとか何かできればいいかな、くらいの。住宅街でお店を始めて、まだ公園にもなっていない、中学校しかないっていう条件であの、通る方は、『ここでよくお店を?』というような条件だったと(笑)。ただ、母親が、ま、『縁がある方が入ってくれれば大丈夫よ』という、そういう感じの考え方だったんで、ほんとに、数年はほとんど、看板らしい看板もなかったような感じだったのと、そうですね、母が二年後に他界するんですね。六十二歳でした。はい、病気になっちゃって。実は、この家も母が設計したんですね。」
お母様が亡くなられた後、娘である山中さんがカノンの経営を引き継いだ。
「その後、十年経ったら、ここのけやきの木を残す運動になり、木が残ったら額縁のように、母が設計してくれたのが生きたって言うか…。はい。その頃は塀しかないから。今思うと、そういう風に作ってくれてよかったなーって。思って…。」
けやきが切られることがわかったのは2008年の雨の日だった
「常連さん、元々ここを持っていた一族の方が入ってきて、雨の日だったからコーヒー飲みに入ってきたんですけど、そのときに、『この木、切られちゃうんだよ』って言う一言があったんですね。じゃあ、もしその日雨じゃなかったら、おじさん達は入ってこなくて、そのこと知らないまま切られる流れだったかもしれないんですけど。分かったときに先ずびっくりしますよね。うちは商店街からも離れているから。」
偶然が重なり、けやきの木が切られることを知った山中さん。彼女はそこで「ああそうですか」とは思わなかった。なんとかしようと思ったのだ。
「どうしようっていう感じだったのを家族と家族同然の、今手伝ってくれているかずこさんと一緒に家族会議して。そしたら不思議と次の日から、『けやきを見たくなった』とか、なんだか久しぶりにいらした方が『けやきに会いたくなったから』とか、ていうような、なんかね、不思議な流れが始まるんですよ。ね。」
「いろんな方のアドバイスがあって、で、署名運動やってみようってことになるんですよね。でも、署名運動なんてしたこともなければ、なんかどうしていいかわからなかったので、かずこさんが、思いのたけを…『手を三人四人繋げるとこの大きさです』とか、ほんと自分たちが感じているこの木の存在を文章にして手紙を書いて、名前を書くスペースを作って…。後々それはフォーマットが違うってわかるんですけど、ただ、やっぱり行動を起こさないと何も始まらないから、とりあえずみんなそれをがむしゃらに、署名運動を始めたんですね。」
「店の前で木を見ている人もいるし、子供たちもいるので、子どもたちなんかも『何部署名用紙ください』って鉛筆で届けてくれたり、書いたものを。でホームページ立ち上げてそれで、外国からも署名くださったりとかもしたんですよ。ホームページを作ったことでみなさんが拡散してくださったりとか、そういう動きに。2008年に出たから、もう十五年くらい前なんでけど。」
「その頃っていろんなお店屋さんにお願いしたりとか。ある時駅の前のお店屋さんにポンと入ったら、そこの奥さんが、南口に昔すごく枝垂桜の素敵な桜があったそうなんですね。噂には聞いていたけど私も見たことがなかったんですね。それが先日バッサリ切られちゃって、その方ほんとにご近所だったみたいで、泣きながら、携帯で、『この桜がね、毎日切られていったんで』てそれを見せてくれたんですよ。そしたらそういう思いしたくないって言って、その方が南口の方で(署名を)集めてくださって。だから、桜の木も応援してくれたんじゃないかって。そこに入らなかったらそのおばさんのこと知らなくて。」
山中さんが木が切らることを知り、すぐに始めた署名運動。あっという間に一万人近くの署名を集めることとなる。
「いろんな方たちがそのとき同時に動いて。ま、ざっくり言うと三か月で一万人ぐらい集まるんです。署名運動してる間に、おじさん達が(けやきの木を切るために)測りに来るんですよね。」
「かなりバッシングもされたんですよね。なんか人の土地に文句付けてる、売名行為じゃないかとかいろいろ。前の方も売れなきゃ困る土地じゃないですか。だから変に文句付けてほぼほぼ成立しているものに対して住民が文句付けてるって、持ってる方だって嫌じゃないですか。」
しかし、山中さんの「木を残したい」という思いはくじけることなく、そして、集めた署名を当時の山田宏区長へ届けに行くことにした。
「当時山田区長だったんですけど、アポを取って、何とか署名をまず届けるって言う約束をしてたんです。ある程度の集まったときに、朝、車で署名用紙もってスタートしようとしたときに、神主さんがお祓いしてたんですよね。切る前の。それで、見たことある住んでる人たちが黒ずくめでこう立ってるわけですよ。え?もうそんな状態?って。前の日におじさん達が測ってたときには何も言ってくれなかったし。で、びっくりしたんで、とりあえず、『切らないで!』って(笑)。でそれで、アポの時間に会って、区長さんに今の事情を言って、で、そのときに区長さんが電話で止めてもらうことが。とりあえず、とりあえずストップ。電話って言うか…そのときに建築会社に電話したんですね。でも電話に出なくて、区長室に入ったときに区長室で私の携帯の電話が鳴ったんで区長さんに出てもらった状態で。それで、とりあえずストップしましたって。区長さんが言ってくれたんで。」
まさに、間一髪で木は切られなくて済んだのだ。そして、木を残すために、今度は区が動くことになる。
「『もうそんなことになってるのか』って区長さんもびっくりして、で、どこの建築屋が買ってるって細かいことも含め、どんどんその動きが広がって、で最終的に超党派でみなさんが手を組んで仲良くこの木は切らないようにしたい、って議会で決まって。」
「ほんっとにもう、ダメじゃないかっていうのがいっぱいあって。三か月で起きたこととは思えないほどで。そのときに八千六百何通で残しますっていうのがあったので、そこで署名はストップしたんですけど、その後も署名が送られてくる状態。」
けやきの木を切った跡地にはマンションが建つ予定だった。山中さん達は区に署名を届けようと思っていたものの、まさか区が買ってくれるとは思っていなかったそうだ。そのため、署名を集めている間の三か月間、木を残した状態での土地の利用法を色々と模索したそうだ。
「木を残したままお家が建つ建築会社さんにここで説明会を開いていただいたり、なんかそれなりに情報を集めて、木が残った形でこれを活用できる業者さんとかがいたら可能性がゼロではないと。あとはお話聞いたりとか。いろんな。でもこの木が大きすぎて。根っこが相当大きくなっているらしくてなかなか難しいというようなことで。でも、黙っているわけにはいかないから、こういう建築屋さんがいるから話を聞いてみようかとか。私たちだけでは到底できない情報をくださったんですよね。」
「でもやっぱり難しいという状況になってて、で、ぎりぎり、その、区が買い取るっていう形に。当時十億円出して。やっぱり超党派なんで、区長と議員さんたちみんなが党を超えて、仲悪いこといっぱいあるのに、そのときはこの木を残しましょうって言って一致して。それもすごい話で。」
「かずこさんが、当時の山田区長は『賢い人は子孫のために木を残す』っていうのが座右の銘だって聞いたことあると。そういう意味でもお手紙を書いていこうって。手紙を書いたからってじゃないけど山田さんは見に来てくれたりとか、直接話を、そんときも。だから、山田さんの時でよかったなーって。ただ山田さんじゃなかったらもっとちょっと違うかなーって。だから区長さんって、今年変わった区長さんには期待してるし。」
けやきの木を残す運動に賛同した人達
署名運動のやり方もわからなかった山中さん達が三か月でここまで署名を集められたのには、西荻の人達の協力があったからだそうだ。山中さん達と運動を広げていった、人と人とのつながりについてもう少しうかがってみた。
「私はこういう離れ小島に住んでいるので、どこどこのお店屋さんに行ってごらん、ってよく言われました。そうすると、いろんな方たちを知ってる人がいるよーって。最終的に骨董屋さんの伊勢屋さんって、猪鼻(いなはな)さんって、もう亡くなったんですけど、猪鼻さんがやっぱり、西荻をいろいろここまで盛り上げた方だと思うんですけど。ご病気で亡くなる前はほんとにいろいろ、西荻に面白いことしようって盛り上げた方で。その頃猪鼻さん知らなかったんですけど紹介していただいたら、実は猪鼻さん、骨董をその、けやきのところの倉庫に入れてたって。でも、猪鼻さんも、たぶん無理だねって言ってたんですけど、あの、当時、とみもと卓さんって議員さん、応援されてて、その方紹介してもらって、よく三人で伊勢屋さんに行っちゃあ『なんとかしたい』って会議してたんです。なんか、よく、猪鼻さんの前で泣いてたなって思うんですけど。」
「伊勢谷美術って、壽庵(じゅあん)さんていう、ベーグル屋さんの前です。けっこうおもしろいところですよ。アラーキーさんのイベントやったり。いろんなお祭りで猪鼻さんって…。私なんか、けやきのことで知って、『困ったときの猪鼻さん』って思って。そういういろいろと紹介していただいたり。だから、近所の方が署名を増やしたのは間違いないと思います。」
「こういう経緯で2008年に起きたことが2010年に公園になるということになります。2010年にもし公園になってなかったら、ここの地盤がよくないから木が倒れたかもしれない。震災一年前に。だからほんとに一年前に公園の整備がされて。そして一年後だったら、区が五億円も木の整備のために出せないと思いますね。そういう意味では。」
アトリエカノンからはじまった小さな流れに少しずつ人が加わり、流れは大きくなり、最終的には区を動かし、樹齢二百年の大けやきを生き続けさせたのである。
「花咲かじいさん」現る
生き延びたけやきの木に、また危機がやってくることになる。公園のど真ん中に一本、どーんと立つ大きな老木。以前は、周囲にあった塀がけやきの木を風雨から守っていたのだが、それはすべて取り払われてしまった。そのため、台風の強風をもろに受けてしまい、裂けてしまったのだ。
「公園になった後、老木は老木なので、建物がなくなってしまったら台風で裂けちゃったんです。これまでは塀があるお家の中で、窮屈ながらも守られてた…。」
台風で裂けた後、木の様子がおかしいと感じる人達が出てくる。
「うちのお客様とかは…当時はまだ木を触れたんですよ…『なんかおかしいよ』とか言ってて。で、杉並区に言ったんですよね。ちょっと状態がって。そしたらあの、来てくれて、ま、(木をサポートする)バンドはやったんです。でも、それでも、枯れる、というか…。」
しかし、そこに…
「花咲かじいさん(日本の昔話)が現れるんですね。」
「これは(写真)2015年の状態で。これは四月です。で、2015年にこうなっちゃったときに、あの、そのちょっと前にね、まだ、こうゆう、見えるような感じの時に、ある、鳥取のはなさかじいさん、福楽さんという方( 福楽善康 ふくらくよしやす)が。樹木再生士。この方を紹介してくれた方っていうのがまたいるんですけど、素敵なおじさん。植木屋さんみたいな方で『すばらしい木だね。ある方に見せたい』って言って。この方は鳥取の方なんですけど、見たときに、普通の目ではわかんない感じの傷み方を『ああ、ちょっとよくないね』って。」
「それを聞いたので杉並区に、(バンドを)こうやっただけではだめみたいですって。そしたら、自分とこ(杉並区)の所有のものだから私が何とかします、って。ただ、この人は無償でも治すって言ってくださったですけど、この人がやれなかったんです。いよいよ、あの状態(写真:木が枯れかけている状態)になってしまった。一年か二年かだったんですけど、そうなったときに、もう福楽さんに頼むしかなくて。福楽さんにお願いしたら一年後にこういう風に(木が生き返った写真)。」
「すごいんですよ。土に栄養を入れるという。土を柔らかくして。だから、それで、他の周りの木まで元気になったっていう。福楽さんでもできない木もあるよって。あの木はまだ大丈夫だっていうのを。私たちがお願いしたかった時に、この方も別のお仕事があって、どこかの木を治すことができて。それも元気になって。同時は難しかったかもしれないし、なんか、タイミングも、この方にとっても一つの転機だったって。作家の佐藤愛子さんの桜の木もずっと見てて、愛子さんが桜を見るためも元気でいたいみたい。で、よく愛子さんの話をされてて。こういう風にね木を再生されている(再生作業の写真を見ながら)ところをね。それで黙々、黙々とね、白い。こういう汚れちゃう仕事だから白で?って思うけど、いつも車の中もきれいだし、それにおなかいっぱい食べないのは作業ができなくなるからって。」
もともと、このけやきの木の持ち主は造園業を生業としていた。けやきを所有しているときは、毎年何十万もかけて剪定をしていたそうだ。
「この木がここまですばらしかったのはその方たちのおかげで。そして後々分ることが、この木が残ることが、持ってた方も『よかった』って思ってくださることを風の便りに聞き。二百年くらいと言われています。ね。だからちっちゃい頃の写真とか、私が生まれる前の写真とかにいますもんね。さりげなくいるんですよ。そして、福楽さんが来たことによりこの木がまた、今までよりも元気になって。台風の時に一回またバサッと折れたときに、でも、木が折れるのは悪いことじゃないんだよって。そこをピシッと切っちゃってまた出るって。」 、
木の伐採反対運動を巡る輪
この、アトリエカノンから発信されたこの一連の運動は、木の伐採反対運動としてはとても成功した例だそうだ。そのため、この西荻窪の小さなグループは、日本全国で同じような地域環境運動を進める人たちから注目されることとなった。
「で、木の運動って、すごく成功した例だから、全国からお手紙だったり。新聞にこの木のことが。桜の木を残す運動をしている人たちがいっぱい手紙が来たり、まず見にいらしたりするんですよね。お金じゃなくてほんとに感じたことをお話したりとか。やる方達もなんかどうも、もう一回頑張るってなったようで、その後、また展開があって、おっきなイオングループがこの木を残して作ることに決まりましたとか、そういういい話ももらったり。だからそうやって、みんな仲間じゃないんだけど、運動した方たちが残ったケースで、もちょっと頑張れるかーとか、でも、かといって私たちと条件が違うんだろうし、だけれど、とりあえず諦めないで。」
「私たちも『ミイセ(みんなでいきるせかい)』って言うボランティア団体を、けやきを残したメンバーで細々とですがボランティアを立ち上げて。これは、その、諦めなかったら叶うこともあるんじゃないかっていうのを、それを感じた人たちで、例えば地域のイベントだったり、みんなでできるイベントとかやってたんですね。コロナ前は特に。震災後(東日本大震災後)はこのけやきの木と、杉並と南相馬(福島県)姉妹都市なのとシンボルツリーがけやきということで、八人いるメンバーの職業いろいろしているなかで『才能企画』をやって、才能を寄付しようって。その寄付を集めてまず相馬に送るっていうのをやり続けていて。」
才能企画とは、それぞれの才能を生かして寄付金を集めるという企画だそうだ。
「私は料理が一応才能ということで。カレーを毎月一杯五百円にしてそれを全額寄付って言うのをしていて。写真家はポストカード、向こうに写した写真がいっぱいあるんですけど、その写真をポストカードにしてその売り上げをすべて寄付。音楽家は、コロナ前はライブをした時の収益を寄付するって。で、貯めて年に一回杉並区に、南相馬の交流課に渡してるんですね。(杉並区からの寄付となるということ?)はい。なので、区長さんからも賞状、今年もいただいて。」
「何かしたいけどっていうことではもう絶対今(ウクライナとロシアの)戦争のこともあるし、シフトして少しずつ別の方向に寄付というのも微々たるものですけどやっていきたいです。ただ、その動きを止めないことは、ちょっとでも頭の中にはこういうことがあったって言うのを忘れないようにって続けているんですけど。」
東日本大震災での津波や原発事故からの復興はまだまだ現在進行形だが、世の中では何となく過去のものになってきている。そうはさせたくないという思いが山中さんの中にはある。
「日々の生活の中でいろんなことを忘れてしまうことがあるし。でも、それでも、やり続けるってことは、きれいごとじゃなくて、自分に負荷をかけることもなんか、大事だなーって、なんか思って続けてることでもあって。メンバー、今すごく少ないんですけど、月一回集まって。五、六人かな、中心メンバーは。何人かで参加できるときは、栃木とか行ったりして。栃木の人もいて。だいたいそんなで。みんな『今年はこんなことできたらいいねー』って、話し合いをしているんですけど。」
コロナ禍の中もでも、山中さんは第三木曜日のカレーは続けてきた。
「ずーっと、止めてないので、やってます。なのでそれだけは。テイクアウトが増えましたね。コロナ禍で。でもほんとありがたいことに不思議ときゅうきゅうにではなくて、この日に必ず会うメンバーたちとか楽しみに集まってくださってるのがまた、コミュニティーの場所になっているのが嬉しいなーって。で、自然に野菜が届いたりね。うち、お水を使わないカレーなんですよ。トマトとか(の野菜の水分だけ)でお肉、ひき肉となので、子どもさんも食べられる、固形がほぼないくらいよーく煮込むんで。『これ使ってください』って送ってくれたりとか、お米送ってくださったりとか。だからそういう輪が広がってってるのがすごくやりがいがあって、ありがたいなーって。だから新聞にも載ったりとかあったし。自分たちも風化させないって思ってますね。なので、第三木曜日の前の日にはクマを作りながら(笑)。結構、量を作るので、仕込みが、結構時間が。だから自分もやりがいがあるなーと思ってやってます。」
自分がそう思うから、自分がやりたいから、と、けやきのこと、カノンのこと、ボランティアを続けていく山中さん。お話をうかがっていると、「草の根運動」という言葉を体現している人のように感じる。
アトリエカノンという店について
アトリエカノンは、山中さんのお母様の夢から生まれた店だ。アトリエカノンという店についてもう少し詳しくうかがってみた。
「はい、二十二年です。母もお話が好きな人なので、なんかこんなに広くなるイメージではなかったんですけど、喫茶店をやりたかったっていう夢が。あとは趣味で洋服とか作るのが好きな人で、お店で自分が作ったものを売りたい、染物とかもしてたので、置きたかったんじゃないのかなーって。母ははっきりそう言ってませんでしたけど、なんかそういう風なことも最近感じているかなーと。」
お客さんはやはり地元の方々が多い。
「一人暮らしの年配の方が多いですね。コロナ禍でまた変わったとこもありますがあの、そうですね一人で住まれてたりする人が結構多いのかなーって。だから、できるだけ、この人に話しかけようとか、そんな感じで。あんまべたべたした関係じゃないけれど、ちょっと気になったらお話したりとかするようにしています。」
「お隣が『けやきの見える家』って言って、樋口さんという方なんですけど、お家を木曜日開放してどなたでもウエルカムに、えーとケア24(地域包括支援センター ケア24) に入って、助け合いのそういうのやってるんですよね。だから、連携って感じじゃないんですけど、うち、木曜日は定休日なんですけどお隣が毎週木曜日そういう会をしているので、その第三木曜日は開けて、『カレーの日』っていうのを作ってカレーを半額にしてそれを南相馬に届ける活動っていうのをしてるんです。木曜日全く休みにすると、来た方、おばあちゃんとかが『寄りたかった』って。毎週だと私も体きついから、とりあえず第三木曜日は開けてますよって。そうですね。」
カノンは地元のよりどころ的な役割を果たしているようだ。そして、コロナ禍でもその役割をはたしてきた。
「特にコロナ禍でお店屋さんが閉まっちゃったじゃないですか。そうすると、このけやきに会いに来る人達がすごく増えたんですよね。うちは扉も開けて、変な話、協力金とかももらわないで。閉めちゃった方がお店の経営としてはいいですけど、そうすると行き場のないおじいちゃんおばあちゃんたちがすごい多いし、私自身も体に悪いと思ったんですよ。」
「私ホントに趣味カノンって言うくらいここにいるのが好きで。お客さん来てもこなくても、ここに来て、なんかしてるのが好きなので。お金とかの話じゃなく。(コロナ禍の自粛で)絶対に体壊す人いっぱいいるんじゃないかって。結局、初めはいいかもしれないけど、なんかやっぱり人間って働くようにできてるんだなと。だから意外とお客様がちらりほらりと来られたり、あの、やっぱり、この木の存在価値がコロナ前とコロナ後では、とても大きな、人間にとってとても大事な存在なんだなって、のを感じた三年でした。ほんと見てると、ちょっとの時間でも見てすっと行く人だったり、体操、気功やってる人だったり。ベンチ二つで、ま、三つになったんですけど、何て言うかやはり吸い寄せられる。 (木の力みたいなのありますね)ありますよねー。」
「木の方が歴史があるわけだからなんか、『人間、やってごらん?』じゃないけど。だって、戦争もね防空壕で人を守って。(防空壕は木の)下に掘られてたみたいですよ。」
コロナ禍、アトリエカノンとけやきの木は、共に住民たちの心のよりどころになっていたようだ。
イベントの場としてのアトリエカノン
アトリエカノンは一階がカフェ。カフェにはグランドピアノが置かれている。地下はカフェスペースとほぼ同じ広さのスタジオ。一階や地下で、これまでに様々なイベントを行ってきたそうだ。
「今年のホントに十月ぐらいから再開というか。自分ができそうなことと…無理をしてやると絶対にいい流れにならないから、知り合いの方だったり、心に響いたものからはじめて。今は見えないものとの闘いのようなあれだから、ほんとにもうお客様にも人数制限。これでやれるのでしたら、うちでやっていただく感じで。ほんとにソーシャルでやれるイベント、ピアノのコンサート、この間子どもさんのイベント五人くらいで。久しぶりに調律をして。地下が一応メインのスタジオなんですけど。換気はあるんですけど。今年の五月かな、あの、えと、知っている方が、パントマイムの方なんですけど、素晴らしい方なので、三十名の限定にしてするかなって感じで。清水きよしさん。今回は生演奏の。フィルドっていうバイオリンの…大阪と実は二か所で。やるんだったらカノンで絶対で続けたいって企画してくれて。(音楽関係のつながりはどこから?)うちがコロナ前まではあの、十二月にクリスマスに、音楽イベントやってて、ま、家族が音楽関係だったりとか。やっぱりいろんな方が繋がりで各国のミュージシャンを呼んでくれたりとか。毎年十二月は、『え?うちでそんな人来るの?』みたいなわくわくイベントをしてたんですよね。それの義援金を送るって言うのをやってて、清水さんもそのちょっと前にカノンでスタジオ借りたいってことから来てくださったんですけど、すごく私たちもお願いして来ていただいてっていうそのつながりもあったんで、御縁がある方だったかな。(カノンっていう店の名は音楽関係だから)それも関係なくはないけれど、ちょっとドイツ語で繰り返すっていう意味なんですよね。お客様が繰り返してきてくれたらっていう。」
カフェ以外でもイベントはやってきたそうだ。
「私たちは年に二回ワークショップで児童館の子どもたちを呼んでけやきの朗読会とけやきの前で遊ぶ会っていうのやってて。でも児童館は今年なくなっちゃったから、うん。ちっちゃい子用の施設みたいになっちゃったんですよね、善福寺児童館とか。いつも毎年一年生グループがここに来ていろいろやってたんですけど。だから今後は小学校にお願いに行って少しでもこの木が残った経緯を語り継ぎたいので。」
山中さんは公園の花壇の整備もやっている。この整備は杉並区の緑化活動に参加して行っている。
「あとは『公園育て組』と『花咲かせ隊』っていうのに入っているので、花壇はいつも私たちが民生で作って、水やりもやっていますね。大変ですね。でも、かずこさんと私で目の前なので。だいたいかずこさんが水まきして。はい、やってますね。緑公園課、杉並区の支給されるお花があるんです。それを自分たちで選んで、どういう風にしたいかっていうのを選んで管理するっていう。だから、公園、いろんなところで見ると、たぶん駅前でも『花咲かせ隊」っていうのが書いてあって、シンプルだけど花植えてあったり、ちっちゃな公園でもそういうエリアがって。」
二十二年カフェをやってきて感じたこと
「だいたいいつも二人体制でやってるので。でも私は極力厨房で作ってる方が多いので。でもなんか、見てて人がやっぱり、人に興味があるんだなってのが、なんか、感じるというか。最近特にそう思いますね。職場と自宅と一緒ではあるけど、『どっか行きたくないの?』とか言われるけど、あんまりなくて。疲れちゃうんです。外に、例えば電車に乗って、ちょっと行こうかなーって思っても、疲れちゃうから。この場所で無菌で育ってるんだなーって思って。木の力なんですよね。お客さんとかに言われるのが『いいわねー、ここはやっぱり違うよ』って言われるときはわからないけど、自分が外周りというか外行って疲れるのを感じると。どこにいても自分が心地よい方が。朝五時半とかからね来る八十歳のおばあさんとかいるんですけど、すっごい『ここちがう!』って。その方ロシアに住んでた方で、いろいろ面白いお話が。朝オープンして話すと『ここはすごいよ、世界中いろいろ行ったけど、ここはすごいよ!』ってすごい言われると、改めてなんかすごい場所にお店を持てたんだなって思ったり、あの、疲れたときだったりへこみそうなときでも、極力その、『だって、ここでやれてんだから』すごいそう思うようになってますね。」
アトリエカノンという場所は、山中さんにとって最も居心地がいい場所なのだ。
出される料理、お菓子、飲み物は食べる人を心地よくさせるメニューである。
「最近は韓国料理というか、あの、友人が韓国の、コロナ前は韓国のブックカフェとコラボしたりとか。そうなんですね。そういうつながりが。これはなかなか。韓国のほんとに寒いところにある。平昌(ピョンチャン)。好ミスカルっていうのは、粉なんですけど、韓国の食材でこんなきな粉みたいなのですけど、栄養が。すごいこれはおすすめですね。中にお餅が入ってて。そうですね、これは甘いもので。料理はカレーが一番人気があります。お水を使ってないカレーなので、こう。とりあえず全部手作りで作ってます。これはユルム茶ですね。ミスカルみたいにすごく栄養がいっぱい入ってる。ちょっと小腹がすいた人にもおすすめな香ばしい感じの満足感があるちょっと甘い。かき氷は、夏季限定なんですけど、子どもたちが多いので、けっこう作ってっていう。できる時は作るんです。結構緩いんです(笑)。これはうちの、ヤマモモがあって、ヤマモモが落ちてくるのはそれはもったいないので、ヤマモモジュースに。リンゴもいっぱい採れるときに作って、りんごのジュース。」
我々もミスカルをいただいたが、ボリュームたっぷりで小腹がしっかり満たされた。
韓国料理を出しているのは、韓国でブックカフェをやっている友人とのつながりからだそうだ。
「友人が韓国にいますのでそれであの、向こうで出版社っていうか、ブックカバーのデザインをしている友人がいて、それでカフェも始めて、そこでいろいろパンも手作りで作ったり、野菜も作ったものですごくおいしいものを提供していて、コロナ前まではよく来日して、えっと、数日間はカノンがそのコラボのお店をやったりとかという感じで。するとみなさんもすごく喜んでくださったりとか。今はコロナ禍で行き来ができないから。でもそいうのでも、お客様から食べたいなーっていうのがあって、私がレクチャーしてもらって作るっていう。結構ボリュームがあって、はい。これはけっこう好きな方が多いですね。」
カフェの入り口の横に祀られている不思議な石の話
さて、最後になるが、ちょっと不思議な話もうかがえた。カノンの入り口の横に小さな祠がありそこに石が祀られている。この石は「お石様」という石なのだそうだ。
「うちには入り口にお石様っていう石が祀られてるんですよね。その石っていうのが、けっこうみなさんわざわざ来られるっていうか。ちょっとオカルト的な『ムー』っていう中に取り上げられたんですけど。あとはなんかネットとかでも出てるらしくって、隕石だって噂されたんですよね。そうじゃなくて、うちのおばあちゃんっていうのが今でいう 『拝み屋さん 』だった。拝む人。あの、スピリチュアルな。私がもう子どもの頃に亡くなってるんですけど、いろんな方たちを見ているので、あるお家の人が不幸が多いから拝みに来てくださいと言われて行ったら、そのお家の土台にこのお石様が埋まってて。このお石様っていうのは尊い神様が宿っているのにお家の土台になっていたから掘り出して、で、うちの昔のお家からずっと守ってきた。それで、私が子どもの頃は玄関にあったときからいろんな方が拝みに来てくださったんですね。最近は外に出してる場所になったんで、結構いろんな方達から、お手紙が来たりだとか、直接お礼を言われたり。ただ、言われてたのは、『私利私欲はダメだ』と。自分の欲じゃない願いは叶いますっておばあちゃんによく言われてたのはお伝えしてるんです(笑)。それが自然に今いろんな方たちがお石様を取り上げていらっしゃって、私たちが署名運動したときも、けやきとお石様といつも拝んでたんです。だから、カノンを語る上でお石様の話はちょっと(笑)お伝えしとこうと思ったんです。いちおう、全然気づかない方もいれば、『このお石は何ですか?』って方もいらして。でも、私も祖母が亡くなっているから、ほんとにざっくりとしか知らないという。ただ、『尊い神様で、手を合わせるんですよ』って、そう言われてたっていう感じだから。だから、この絵本 『坂の上のケヤキ』 、そん中でストーリーテーラーがお石様っていう。ファンタジー書いてますけど九割がた実話をもとにっていう風に作ってもらったんですね。」
アトリエカノンは、たくさんの動きを発信している場所だ。どれも、最初は小さな動きだが、山中さんをはじめとして、人々がそれを「続けて」少しずつでも「広げて」いく。住民運動…「自分たちの住んでいるところを自分たちの力でいいところにしたい」という運動。小さなカフェは単なるビジネスではなく、草の根の住民運動を支援するプラットフォームにもなり得るのだ。(ファーラー・ジェームス、木村史子、2023年6月10日)