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執筆者の写真James Farrer

西荻のシンボルの終幕

更新日:2023年4月22日


西荻のシンボルの終幕

JR西荻窪駅の南口を目の前に店を構えていた洋菓子とフランス料理「こけし屋」が2022年三月、七十三年の歴史に幕を閉じた。夏に取り壊された本館と別館の場所には、新たに二十階以上のマンションが2026年に建つという。その一階に、新たな「こけし屋」がオープンする予定だ。


再開が約束されているとはいえ、近隣住民が失ったものは大きい。こけし屋は西荻の中で最も有名な店であり、地域のイベントや家族の記念日の場としても愛され、そして、何十年にもわたり、近くに住む芸術家や知識人が集うサロンとしても利用されていた。西荻のランドマークといえるレストランがなくなった今、例え再建されたとしても、同じ「場所」でも同じレストランが戻ってくることはないのだ。


こけし屋の常連客は、突然の休業にショックを受けた。2022三月、店を閉じる一週間前には、洋菓子売り場には行列ができ、レストランは八十代以上の常連客の予約で満席になっていた。

 老舗レストランの終幕の真意と不透明な未来を知るために、私たちはこけし屋のTwitterを担っていた小林慶大さんに話を伺った。小林さんはこけし屋休業までの十年間、料理人として働いていた。彼がこけし屋のTwitterを運営しており、フォロワーは四千六百人もいる。インタビューの中で小林さんは、彼がこけし屋で働き始めたきっかけと、働いていた中で見てきたもの、店の将来について、彼なりの見解について話してくれた。



小林さんと「こけし屋」の出会い

まず、小林さんが調理師としての道を歩み始めた経緯について伺った。

「元々は料理人じゃなかったんです。二十六歳くらいまで普通に会社員してたんですけど、ちょうどその頃リーマンショックで。僕の勤めていた会社が大手の電機メーカーの下請け会社で、そこがちょっと大変だってことになっちゃって。そこで転職ってなったときに、個人的に料理は好きだったので、思い切って料理人になってみようと思って、調理師学校に一年通って。吉祥寺に『双葉調理師専門学校』っていうところがあるんですけど、そこを卒業してから料理の世界に入りました。アルバイトとかではありましたが」


調理師を目指すため、出身の青梅市から西荻窪に引っ越した小林さん。調理師学校では洋食だけでなく、全てのジャンルの料理を学び、専門学校を卒業した後はイタリアンで数年働いたそうだ。そんな小林さんはどのようにこけし屋との出会ったのだろうか。

「最初勤めたお店を辞めて、家が西荻窪だったので、駅の周りを散歩していたら偶然『調理師募集』っていう張り紙を見つけて。『要経験者』とちょうど書いてあって。元々西荻窪はこけし屋が有名だったので、目に留まり、すぐ電話してみたんです。当時の料理長が面接をしてくださって、なんかいろいろ聞かれるかな?って思っていたら、開始二分くらいで『いつから来れる?』みたいに言われて(笑)。ちょうど自分が入ったときが、ご夫婦で調理場に入っていた方が辞めるタイミングと重なっていて、ちょうど人手が足りなかったみたいで(笑)。」




「こけし屋」について

こけし屋は西荻で群を抜いて大きな規模のレストランだった。別館と本館があり、どちらでも料理を提供していた。本館と別館ではメニューが少し違い、小林さんは別館と本館を行き来して料理をしていたそうだ。


「本館の五階が大きな調理場、六階にお菓子をつくる工場があって。五階では本館で出す料理をつくってました。別館で出す大きな仕込みが必要な料理もそこで仕込んでいました。

別館の料理は、本館で仕込んだものを別館のほうに持っていって、最後の仕上げをやります。本館と別館は後ろの通路でつながっていて、料理や仕込んだものを運んでいました。台車で五階からエレベータで降りて、別館の一階の調理場に運んでテラス席にだしていました。最後一年間はテラスを担当していましたので、行ったり来たりしていました。」


こけし屋といえば、伝統的かつ家庭的なフランス料理という印象だが、小林さんが働いた十年の間、提供される料理に変化はあったのだろうか。

「多少毎月変わったメニューみたいなのは出していましたけど、でももうメインで出すメニューっていうのはほんと昔からのメニューをずっと変えずにやっていましたね。多分何十年も前の料理の教科書とかに載っているようなメニューもありました。こけし屋のレシピがあって、若手はまずそれの作り方を全部教わっていました。」


「こけし屋」と小林さんの十年間

老若男女から人気のこけし屋だが、昔から店を愛用している年配の客層からの支持は特に厚い。

「お客さんは僕が入った頃から常連の方が多かったですね。やっぱり、『西荻窪といえばこけし屋だよ』と言って昔からいらっしゃってくださるお客さんが多かったので。僕なんか十年くらいしか勤めなかったので、僕なんかよりお客さんの方がよっぽどこけし屋について詳しいっていう人が多くて。『昔勤めていた誰々は元気か?』 『あ、僕あったことないんです』みたいな(笑)そんなような話をよくしてました。」


こけし屋が閉店するまで働いていた驚くほど超ベテランのスタッフ達もいた。

「最初の料理長は、最後七十二か七十三歳で元気な方でした。最後まで厳しく指導されました。辞めてからも息子さんとまた一緒にお店をやると聞いてます。別館のテラスで、カウンターの中でコーヒーを淹れてくれていた人は九十歳でした。最初は違う飲食店で働いていましたが、最後はこけし屋で。年齢を知らなかったんですが、聞いたら僕のお婆ちゃんと一緒でびっくりしました。本人は10百歳まで働くつもりだったみたいです。」

「配達の運転手をしていたうちの名物お爺ちゃんは、五十年ほどこけし屋で働いていて、八十三とか八十四歳でした。とても優しく、宴会部長で元気な人でした。辞めるときにも、もうゆっくりするんですか?と聞いたら、どこかで仕事見つけてまだ働くよと言ってましたね。」

職場としてのこけし屋には、昔ながらの厳しい上下関係のようなものはあったのだろうか。

「こけし屋は老舗なのでそう思われがちですが、意外と人間関係はフランクでした。皆で手が空いたときは世間話をしたりしていました。」

しかし、小林さんが働き始めてから十年の間にスタッフは減っていったそうだ。

「最後に残ったのは社員だけで二十人もいなかったと思います。アルバイトさん、学生さん、主婦のパートさんがいてくれたので。僕が入った頃は、社員だけでも四十人くらいいましたけが若い人は辞めていってしまって。」

小林さん曰く、調理師業界は比較的若い人の移動が多いそう。

「(移動の理由は)新しい料理をやりたくなったとか、違うことに興味が沸いたとか色々ですね。若い人ほど出て行ってしまう。だから最後やめるとき、僕が三十八歳で一番若かったんじゃないかと思います。」



コロナ禍の営業

すべての飲食店に大きな影響を及ぼしたコロナウイルス。老舗「こけし屋」も大きな影響を受けた。売上の大きな割合を占めていた別館二階の宴会場は、ピアノの発表会の打ち上げや二百人規模のパーティーなど、様々な用途で利用されていたが、コロナによってそのすべてはできなくなってしまった。宴会場だけでなく、レストランにも影響はあったそうだ。

「コロナが広まって緊急事態宣言が初めて出たときのランチタイムは、お客さんが一人とか。一階のテイクアウトでケーキやお惣菜の部門はそんなにダメージは無かったんですが。別館は通常の半分くらいのお客さんになってしまって。(本館の)レストランの方は半分どころじゃなかったですね。九割ダウンの一割になってしまった時もあって、結構お手上げでした。お弁当を作ったり、あの手この手でやったりはしたんですけど…」


月に一回開催され、一日で千人を超えるお客が訪れることもあった日曜日の朝市も、コロナ禍では開催されなかった。しかし、こけし屋が休業となる数ヶ月前にはコロナが収束してきたこともあり、朝市を復活することができた。

「最後の数ヶ月の朝市は開店から混んでいて、常連さんも入りたくても入れなくて、お断りしたこともありました。店頭のケーキ売り場はもうお昼頃には売り切れちゃっていました。朝市は八時からオープンなんですが、五時半頃には常連さんが必ずニ人くらい並んでいました」

最終の朝市の日は、休業を惜しむお客様で賑わっていたそうだ。

「僕は(朝市で)オムレツの係だったんですが、最後日は『もう終わっちゃうの?』と言って寂しがってくださるお客様もいらっしゃいました。」 


SNSの反響

しかし、コロナがこけし屋に与えた影響はネガティブなことだけではなかった。コロナ禍以前はSNSとは縁の無かったこけし屋が、コロナをきっかけにSNSを始めることにしたのだ。

「ツイッターは最初にコロナになった時に、どうしようってなって、今時SNSをやっていない店ってないんじゃないかと。ホームページはあったんですが、昔に作ったものでフォーマットが古いので、アイフォンだと文字化けするということだったんで。僕がSNSをやりましょうと言い出したんですけど、そもそも(スタッフが)「SNSとはなんぞや」っていう人達ばかりだったので、僕が全部やりました。インスタとフェイスブックとツイッターを作って、メニューや行事等不定期に発信していました。」

特にツイッターによるつぶやきは、大きな影響力があったという。

「ツィッターは最後何ヶ月かの時に、『こけし屋ラスト〇ヶ月です』ってタイトルでアカウント名でつくったら、3日で5000人くらいフォロワーが集まりました。最初は全員をフォローバックしようと思っていたんですが、5000人だと難しくて、」

「『今週朝市です』とアップすると、行列が沢山出来てしまってお巡りさんによく怒られたりしました(笑)。」

大成功を収めたSNSの活用法の秘訣を伺った。

「それは『こけし屋』という名前ありきではあると思います。思った以上に西荻窪や杉並区でのこけし屋のネームバリューがあったんだと思います。」


こけし屋と小林さんのこれから 

こけし屋が休業となった今、小林さんは知り合いのお店を手伝いながら、自分のお店を持つための準備をしているそうだ。どんなお店を計画しているのかについて少し伺った。

「場所はまだ決まってませんが、青梅(小林さんの出身地)だと人出が少ないから、御岳とか考えましたね、登山客をターゲットにして。あの辺なら家賃も安く済むし。御岳や青梅線の辺は最近再開発じゃないけど、観光客向けにこれから色々作ろうと計画されているみたいですね。景色がいいですよね。ただ、ちょっと不便。車があればいいけど、持ってなければ不便ですね。」

西荻での出店は考えているのだろうか。

「西荻は他の中央線の駅に比べて独特かもしれませんね。僕のイメージだと中央線の青梅出身なので、立川より先ってもっと都会的かなと思ったんですが、西荻はわりと下町感がありますよね。個人的には西荻は好きな町なので、やれればやりたいなとは思いますが、現実問題、予算を考えると物件の家賃が高いですね。」

お店を出すうえで、家賃は重要であるという小林さん。

「家賃が高いと初期費用がかかってしまうので。あと、家賃を安定して払えるように、店を出す場所が、人出があるのか見なくてはならないです。この前も、西武線沿線五駅くらい、下車してどんな町か散歩してみたりしました。西武線沿いは商店街がどこも賑やかでした。」

小林さんは、どんなスタイルの料理を提供するか、まだ悩んでいるという。しかし、魚を中心とした料理を出したいそうだ。


小林さんが今後の自身の計画を進める一方、こけし屋の将来ははっきりしていない。現在のオーナーである創設者の息子はレストラン経営の経験がないため、営業再開のハードルは高いだろう。その上、三年間の休業後、昔の従業員とともに店を再スタートさせることは難しいのではないだろうか。多くの従業員は既に高齢であるし、小林さんのような若手は他の仕事に移ってしまっているだろう。さらに、仮に十分な従業員を集めることができたとしても、東京のフランス料理市場の変化の中で店をどのように位置づけられるかという問題もある。二十年前の古風なスタイルを貫き続けるこけし屋の料理について、小林さんも考えるところはあったそうだ。

 「また同じようなスタイルにして、受け入れられるのかというとどうなのかなあ。でもクラシックを極めて特化するというのもありなんだと思います。そうじゃないと中途半端になっちゃうし。」


そう。こけし屋は新たな建物で復活するだろう。しかし、その中身は昔からの「こけし屋」なのか、「新生こけし屋」なのか、まだ明確にはわからないのである。(ファーラージェームス・矢島咲来・木村史子 4月22日2023年)

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