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社会変化の中の家族経営というモデル

西荻は個人経営の店が多い。新規店はもちろんだが、昭和の時代から町の人々に愛されてきたお父さんお母さん、叔母さん、叔父さん、息子夫婦で力を合わせて店を切り盛りしてきた家族経営店もある。しかし、経営者の高齢化、後継者の不在また、都市開発などにより、そんな家族経営の店は少しずつ姿を消している。現在の厳しい社会環境の中、家族経営の店はどうやって生き残っていくのだろうか?

西荻にある家族経営の店にインタビューし、その糸口を探ってみることにした。

 

蕎麦安田屋は、安田千年(やすだ ちとし)さんの代にスタートし、現在は二代目の安田 勝利(やすだ かつとし)さん、 安田 美希子(やすだ みきこ)のご夫婦がメインで立ち働いている家族経営の蕎麦屋だ。安田屋は、蕎麦屋といっても蕎麦だけではなく定食などのメニューが豊富な店だ。

 

 

一代目、勝利さんのお父様、千年(ちとし)さんは、今から五十五年前、昭和三十九年十二月に西荻窪に蕎麦屋を開店した。

「おじいちゃんが、主人の父が最初です。その前に五年間世田谷の豪徳寺で蕎麦屋をやっていましてそれでこっちの方にいい場所がないかと探して、こっちに来たんです。」

「全然知り合いとかいたわけじゃないんです。父の実家は千葉なんですよ。千葉の岩井。房総の方で、母は茨木の土浦なんで、この辺は全然知らない。父は和食の料理人なんですよ。で、もう日本橋とか銀座とかそういうところでずーっと働いて、蕎麦屋で修業したことないんですよ。母と一緒になって蕎麦屋をやろうってことになって、で世田谷の豪徳寺の方で始めました。」

 

安田屋西荻店の開店当時、お店がある五日市街道のあたりは小さな専門店が立ち並ぶ賑やかな商店街だった。

「コンビニがなかったので…。魚屋さん、お肉屋さん八百屋さんとか全部商店街にそろってたんです。スーパーもなかった時代なので。 」と美希子さん。

「個々の商店街に七十軒、商店がそろってたんですよ。五日市通り商店街。お肉屋さんがあって、八百屋さんがあってって。酒屋さんだけでも二軒も三軒もあったし、八百屋さんは相当あったし、クリーニング屋さんも。うちのおやじがここに来た時に周りに蕎麦屋が三軒くらいあったって。知らないで入ってきて…うちのおやじも知らなかったみたいで。」と勝利さん。

「蕎麦屋さんが三軒、中華屋さんが二軒も三軒もあって、なんでこんなところに店を出したんだ、って言われたって言ってましたから。うちだけ残って…。」と美希子さん。

 

お父様の千年さんが西荻に店を出したころは、蕎麦屋が町の食堂だった時代のようだ。当時のメニューをうかがってもそれがよくわかる。

「昔はオムレツやったりとか大変だったみたい。どっちかっていうと天ぷらよりはかつ丼とか。いろんなものが…。おやじがやっぱり料理人だったから、で、和食もあったし、洋食の部分もあったし。」

 

二代目の勝利さんは、どのタイミングで安田屋を継いだのだろうか。

「高校まで考えていなかった。手伝いもそんなにやっていなくって。 」

「主人が子どもの時は、今立川にお店を出している母の弟夫婦が一緒にいたの。で、一緒に働いてて、もうそろそろ独立したら?って、それで自分で立川の方に『安田屋』っていう店を出して。叔父さんと叔母さんにあたる。」

「だから子どもの時は全然手伝わないで。高校生の時になってから吉祥寺の藪蕎麦さんってところに行ってて。吉祥寺のラーメン屋さんとかも行ってましたし。だから本格的にここに入ったのは…二十一歳になってからですかね。」

 

勝利さんが安田屋で働き始めた頃は、とても忙しい時代だったようだ。

「バブルのときでしたからね、そのときは。僕が入ったばっかりのときですかね。大きなマンションがばーって。今は住居だけど当時は一階から七階まで全部会社が入っていた時代。だからものすごく会社の数が多くて。それはどこも同じだったけど。あとは水道局さんがでっかいのがあったからね。そういったところの人もやっぱり来ましたし。会社からも。それと建設ラッシュっていうものありましたから、そこの現場に出前もありましたし。お弁当屋さんがまだそこまでたくさんありませんでしたし、会社にかつ丼十個とか十五個とかそういうのがあった時代だったんですよね。それから何年後かに、会社の方にはお弁当屋さんが入るようになったんです。」

その頃の出前は、昼は会社や現場が多く、一般家庭へは夜が多かったそうだ。

 

お店で昼を食べるお客は、仕事をしている人がメインだそうだ。

「お昼は現場の近くの職人さんが十二時から一時のお昼の時間に来て食べて帰るっていう。さっきここにいらした方も職人さん。昔から職人さんが多いです。工務店の職人さんもいらっしゃるんですけど、お家建てたりだとか期間限定の職人さんだとか。一度来だすと終わるまでいらしてくれて、『今日は何にしようかな?』ってそのうちお話しするようになって。『今日で最後なんだよ』って『ああ、また来てくださいね』とか。その出会いと別れを繰り返しながらという感じですかね。それは昔から。」

と、美希子さん。

「土日になると家族連れの方が多くなるかな。日曜日はほとんど現場がお休みのところが多いんで。最近はいついつまでに、っていう期限があるからって日曜日もいらっしゃる方も中にいるんですけど、だいたいは平日はお昼は会社関係の方。」

「今はだいぶ減っちゃったんで。前は大きな会社の方が来てくださったりしたんですけど。出前も会社にお昼までに、っていうのもあったんですけど、今、資生堂さんもなくなっちゃったんで。そうなんですよ。出前は昔は会社が多くて、昔はね。」

と、美希子さん。

「時代なんですかね。昔みたいに会社に出前を持って行くっていう時代じゃなくなったみたいで。それよりも食べに来るっていう。近い方はね。」

と、勝利さん。

 

「お店は一度にわっと来てしまうと、どうしても出前の方が後になってしまう。お待たせしてしまうので、なかなか。どうしてもお店の方が優先になってしまうので。出前の場合は『ちょっとお時間ください』って言えるんですけど。それが欲張らずにっていう…。ランチがうちは値段的に安い方ので、それで来てくださるのかなって。ま、ランチじゃないんですけど、一日同じ値段でやっているのでセットメニューが。(会社勤めだと)毎日のね、お昼ごはんの値段、いくら出せるかっていうと…あると思うので。千円出してお釣り来るのが理想なんですよね。」

 

東京都の調査によると、平日の昼食で外食・中食に使用する金額を聞いたところ、「500円以上800円未満」が約3割(34.1%)、以下、「800円以上1,000円未満」(23.2%)、「300円以上500円未満」(21.5%)、「1,000円以上1,300円未満」(10.9%)、「1,300円以上」(1.9%)、「300円未満」(1.5%)という結果が出た。

安田屋のメニューは、ちょうどボリュームゾーンにあたる価格設定だ。

 

安田屋は開店以来ずっと家族経営だ。美希子さんは、安田屋で家族として働くようになった経緯を話してくれた。

「立川に行った叔父さん夫婦が抜けてから、母の妹がいるんですけど、十年くらいかな、その後、手伝いに来て。そしてそのあと私が、二十年になります。結婚して。2000年に結婚したから。上の子がちょうど二十歳になります。今年で。」

「わたしはもともと、今はバイク屋さんなんですけど、前は三徳っていうスーパーがあったんです。そこで社員で働いてて。そこに(勝利さんが)お肉を買いに来て、そこで知り合いました。この五日市街道まーっすぐ行ったところに、ちょっと前はサンドラックっていう薬屋さんだったんですけど、そのもっと前はスーパーだった。98年にオープンして六年くらいやった。2004年までだったかな。わたしは社員で四年。それからここで。」

 

美希子さんは、飲食店での仕事を、それも家族としてやっていくことに抵抗はなかったのだろうか。

「抵抗はないですね。ずーっとアルバイトも、浜松町の改札出たところにサンディーヌっていうハンバーガー屋さんがあったんですけど、大学四年間働いていたので。基本立ち仕事なんですよ。やってきたことが。スーパーに就職して、スーパーも立ち仕事なんですよ。接客の仕事。だから全然『だいじょうぶかな?』っていうのはなかったです。ただ、作るっていうのは教えてもらわないとできないので。(今は?)はい、作っています。蕎麦は、打つのは主人が全部やりますけど、出汁をとったりとか天ぷら揚げたりとか。そばを打つ以外は全部やります。」

「今は主人と私と。母が二月に転んじゃって三か月入院してて、今ちょっとリハビリ中なんですけど、私がお嫁に来たときは主人の両親、母の妹の叔母がいて、で、私が入って五人でやっていました。今は、主人に姉がいるんですが、三つ上のお姉さん。今母がそんな状態なので、姉は結婚して武蔵砂川って違うところにおうちがあるんですけど、父と母の面倒見ながら、週の半分、木金はお店の手伝いをしてもらっています。父がお昼は来てるんです。八十九になるんですけど、いまだにお昼は天ぷら揚げたりとかしてくれて。そう、父がお昼いてくれて。毎日。来年九十です。」

話はそれるが、お見かけしたお父様の千年さんはとても九十歳には見えない。

話を戻そう。安田屋は基本、家族だけでお店を営んでいる。叔父夫婦が独立した三十年前だけ、仕事が回らず一時期アルバイトを雇ったことがあるそうだ。現在は家族以外のアルバイトはいない。しかし、労働量・時間は決して少ないとは言えない。

「わたしは家のことをやっているので、だいたい十時ぐらいに来て、お店の片付けとかやって、帰るの十一時とか十二時くらいですね。主人は八時半くらいに店に入って出汁とって蕎麦打って、ってやってるので、主人もちょっと先に帰るくらいなので、ほぼ同じくらい、十一時くらい。父は朝は早く来て、夜はもう終わったらある程度でさっと帰ってたみたいなんですけど、私たちは朝弱いので、なるべくできることは夜のうちにやっておいて、朝は朝で違う仕事やって。お昼足りないものがあったら買い出しに行って、忙しくてお蕎麦がなくなってしまったら追加でお蕎麦を打つ。で買い出しいけないときがあったら私が買い出しに行く。八百屋さんとかは数が多い時は電話で注文して。駅前に『やおたい』っていう八百屋さんがあるんですけど、北口です。」

 

忙しい職場。そして職場でも家族、うちに帰っても家族である。そこで困ったことはないのだろうか。

「あの、例えば喧嘩したとしてずっと口きかないわけにはいかないじゃないですけ。お客さんの注文を聞かないわけにはいかないので。だから、喧嘩しても長引かないですよね。いつまでもねちねちねちねちと『あんときはああ』とか…(笑)。仕事も一緒、家帰っても一緒だから、その辺は割り切って、頭切り替えて。」

と美希子さん。

「折れたほうが勝ちですよね。『そうだね、その通りー』って(笑)。」

勝利さん。

「どっちかが熱くなってわーって言ったら、もう一方は冷静になっていないと、お互いが熱くなっちゃうと止まらなくなっちゃう。口げんかになっちゃう。ああ、今日は私が折れたほうがいいかな、とか。ま、ちょっと、空気を読んだ方がいいかなっていう。それが長続きするコツ(笑)。」

美希子さん。

家族経営でうまくやるコツは、言いたいことは言い合う、だそうだ。ただ、

「やっぱり他人だと少し言葉だとか気を付けて言わないといけないこともあるんですが、身内だと言いたいことバンバン言えちゃう部分もあるんですけど、それをため込んでストレスになっちゃうよりも、それをそのときにお互いにぶつけあって、解決する。」

とのこと。それは、店で何か新しいことを始める上で大切なことだ、と二人は話す。

「今まで天ぷらに力を入れてなかったんです。定食とかオムライスとかそっちがメインで。あの、主人の友達からも天丼をセットやった方がいい、と言われて、それまでかつ丼とか親子丼しかセットをやってなかったんですけど、それを言われて。『みんな天丼をセットでやってるぞ』と。二十年前は、会社関係はかつ丼が圧倒的に多かったんですよね。お昼はもうかつ丼。男の人は好きなんですよね。麺類だとのびちゃうっていうのもあったのかもしれませんけど。あと、ご飯ものだとおなかにたまる、肉とご飯。父が蕎麦屋で修業してないので、出汁の取り方がちょっと違うんですよ。かえし(醤油、本みりん、砂糖を併せた調味料)っていうものを作ってなくて、あったかい用のおつゆはあったかい用でとって、冷たいものは冷たいもの用のおつゆをとって。だから、それはもう父のオリジナルっていうか。父が自分で考えて作ったもので。それでかつ丼のたれを作っているものですから、よそと違うと皆さん言ってくださって。天丼はかつ丼のたれにちょっと醤油とか足して作ってるんですけど。」

 

勝利さんと美希子さんが結婚したての頃は、まだ勝利さんが配達担当だった。そのため、新メニューまでは手が回らなかった。その後、勝利さんが調理を任されるようになり、徐々にメニューをリニューアルしていった。美希子さんがそのリニューアルをしていった時のことを話してくれた。

「冷やし小海老天なんていうのも主人が始めたいって言って始めたメニューなんで。『海老を何種類も使うのは』って、父に反対されたんです。メニューを増やすっていうことはそれに合わせて仕入が増えるってことなんですよ。鍋焼きうどんと天ぷら蕎麦と天ざるだけだったら、同じ大きい海老だけでやっていけるんですけど、小海老を今度始めようってなると………。天丼セットは小海老でできるからって説得して。小さい海老二本とお野菜つけるんですね。」

「だんだんそれで、私たちがこういう風にやりたいっていうのを、納得してもらって。昔だったら冷やしたぬき蕎麦は揚げ玉ときゅうりとなるとっていう感じだったのが、『冷やしたぬきに海老を一本入れたいんだけど』…って。『やっぱり注文来てから揚げ玉は揚げてのせたいんだけど』って。だからよく、やり方変えたことについてきてくださったなって。父が。」

「私たちが『こういう風にしたいんだけど』ってもうほぼ決めてから事後報告的な感じなんですけど、でも父は、『こういう風にやるよ、ってやり方さえ言ってくれたらやるよ』って言ってくれてて。例えば、天ぷらにするものをばーって並べて、『はいこれ』って言えば揚げてくれるんで。」

「冷やし上げ餅とかも。揚げ餅もやってなかったんですよ。力うどんしか。で、いろんなお店食べに行って、やっぱり揚げ餅が人気があるってわかったんで。女性の方好きなんですよね。カレーうどんとかに揚げ餅のせるのもおいしいですし。そういう食べ方もあるし、だから揚げ餅トッピングっていうのをやろうって。そんな感じ。揚げ餅はうどんも蕎麦もできます。」

 

安田屋のうどんと蕎麦は自家製麺だ。以前は中華麺も作っていたそうだが、一つの機械で三種類の麺を作ることは作業量が多いため、現在は中華麺は作っていない。

「だんだんだんだん、父が長い時間働けなくなってきた。前はここで休憩時間の時は横になって休んでたんですけど、もうお昼しかできない。となると夜が私と主人と母と叔母の四人でやってたんですけど、なかなかその、母と叔母が作れるわけではないので、注文を聞くとか電話をとるとかのお手伝いなんで。そうなると、自分たちが中心にやっていかないといけないから自分たちがこう、売りたいもの、やりやすいものを考えていかないといけないねって。少し減らしたりもしたんですけど。それで中華を思い切ってやめようって。今、ラーメン屋さんが専門店、だいぶできてきているので。昔から蕎麦屋のラーメンが好きっていうファンも多かったんですけど。だからすごく残念だっていう声もたくさんいただいたんですけど、でもやっぱり、たくさん注文がある中で一人だけ中華ってなると、それでまたちょっと出前が遅くなってしまうので。少しでも早く出前を持っていくためにはメニューを絞ろうって。きしめんはあるんですよ。名古屋の方で有名な。食感がいいんですよね。きしめんだけは自家製だなくて乾麺なんですけどね。きしめん用の、あったかいきしめんのお汁が、関西風のあったかいお汁をとるじゃないですか。その残った鰹節、それにもう一回お湯をたして二番出汁をとるんですけど。鶏きしめんおすすめします。それでプラス定食類があるので、これでもメニューは多い方ですね。」

 

一代目から二代目に、働き方とメニューをうまくシフトさせるのも家族経営がうまくいく秘訣のようだ。

 

さて、では三代目は…と考えているのだろうか。

「娘が十歳の時の二分の一成人式の時は、蕎麦屋をやりたいって言ってくれたんですけど、今現状を見て、私が外で稼いだ方がいいかなって(笑)。剣道をずっとやってきたんで、警察官になりたいって。ほんとは息子が継いでくれたらよかったんですけど、息子が蕎麦アレルギーなんです。食べられない。息子はきしめんかご飯。別にお湯沸かして。もうすぐ二十歳になります。息子も高校卒業して就職したんですけど。」

とのこと。安田屋の次の代はどうなるのだろうか…。

 

後継者問題は安田屋だけの問題ではない。昔から西荻にあった多くの店が直面し、そして、閉店もした。

「お米屋さんとかお豆腐屋さんとかあったんですけどね、あの乙女ロードに。」

「結局、後を継ぐ人がいないから、だからやっていた人が違う場所に行ってしまったとかで、今は半分。半分もないくらい。ピークの時は七十くらいあって、今、ほんとに商売やっている店はないですよね。五日市街道商店街。(ほとんどご高齢で辞められた?)そうです、そうです。商売辞めちゃってビルにして、自分達は住んで、あとは貸すとか。」

西荻の昔ながらのお店はそうやってどんどんと減っていっている。

 

ただ、商店街のお祭りは残っている。

「お祭りはやります。秋のね。九月の。ここは春日神社。」

お祭りのような行事を通して商店街のつながりはまだあるそうだ。安田屋は祭りをしている商店街組員に食事を提供する、という参加の仕方である。祭りが終わった後には打ち上げが行われ、神輿を担いだり手伝いをした人たちが参加する。安田屋のお嬢さんも参加していたそうだ。

「おいしいもの食べたいって、いつもくっついて(笑)。この近くの三つの商店街がお神輿を合同で、途中から合同で一緒に行くんですよ。ここが五日市商店街で、目の前が南本町会、で、一本むこう、お好み焼き屋さんの入った通りが南銀座会って、ほんとに道が一本入ると商店街の名前が変わる。駅のあっちとこっちで名前が変わるんですけど。三つのお神輿が合流して一基が三基になる。やっぱり、一つだけだとさびしいじゃないですけ。最近はそういう形でずっとやってたんです。場所によっては若い人がいなくて、神酒所だけ開いてカセットテープで音楽だけ流してるっていうところもありますよね。」

昔ながらの店、商店街、それが消えていくと、町の行事も消えて行ってしまいそうで寂しさを感じた。

 

半世紀前、若い料理職人夫婦は杉並区に来た。そして、特段こだわりもなく、ある場所に自分たちの住処と働く場所を買った。彼らは彼らの家族たちと忙しく蕎麦屋経営をしながら、数十年前に店であった建物を三階建てのビルに新築した。一階は蕎麦屋で、上の階は賃貸マンションだ。そして、彼らは店のすぐ裏に住まいを設けた。現代の社会状況から見ると、この小さな蕎麦屋の今へとつながる歴史は、遠いとおい過去の出来事のように感じる。今、日本社会の中、西荻のような小都市の飲食店で店を持つ若い職人達にとって、安田屋が歩んだような店の歴史を今後紡いでいくことは想像し難いのではないだろうか。飲食店業界は人手不足で、どこも従業員を探している。しかし一方で人件費は経営に重くのしかかる。

古き良き時代、飲食店の家族経営は一つの優良モデルだったかもしれない。今、飲食店を取り巻く環境は、様々な経営コストの上昇、家族の形態の変化、チェーン店の増加…などと、大きく変わりつつある。そんな中、家族経営も新しい局面を迎えざるを得ないだろう。(ファーラー・ジェームス、木村史子、10月7日2020年)

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