フランス料理で地域に密着していったレストラン
フランスレストラン「こけし屋」は、西荻の他の飲食店よりも強く、戦後の西荻窪のイメージをつくりあげたといえよう。 創業者大石宗一郎さんは、1947年、早稲田大学の学生のとき喫茶店として店を開いた。 喫茶店は戦火の中を耐えた二階建ての木造建築であった。もともと、亡くなった両親が洋服屋を経営していた店舗だった。
こけし屋にまつわる住民たちの逸話は数多くありそうだ。 戦後間もない頃は、近隣の多くの住民がナイフとフォークを初めて使った場所であり、洋食を最初に食べた場所。最初にクリスマスケーキを購入した場所でもあろう。 もしくは、高校を卒業し就職した若者が最初の給料をにぎりしめ、はじめてのレストンの食事に行った場所であろう。 そして今なお、誕生日のお祝い、法事の食事会、また同窓会やピアノの発表会などの場として利用され続け、新しい思い出を作り続けている。
開店当初、こけし屋を有名にしたのは料理ではなく、待ち合わせや打ち合わせの場所として使われた文化人サロンである。喫茶店の開業前から、こけし屋の建物の二階では学者、芸術家、俳優などの文化人が週一回のサロンを開いていた。1947年に会が始まった当初、このグループは、会場の隅に置かれた「こけし」の人形から「こけしの会」の名を冠した。 会員達は、日本の文化を復活させるため、新しい開放的な民主主義的な雰囲気を求めた。 流行りの音楽から難解な学問まで、幅広い話題で会は賑わった。1949年に、大石さんの喫茶店は「こけしの会」から「こけし屋」の名をもらい受けた。それと同時に「こけしの会」の会員達は、エーリヒ・マリア・レマルクの小説「凱旋門」に象徴的に登場する林檎酒の「カルヴァドス」の名称をとり、会の名を「カルヴァドスの会」と改名した。しかし、終戦後間もない東京の町で、輸入されたカルバドスを実際には飲むことができず、代わりに闇市のカストリ焼酎を飲んだのである。
こけし屋とフランスの関係は、カルヴァドスの会員達から始まった。カルヴァドスの会の創設者である石黒敬七さんは、柔道を普及させるために1925年にフランスに渡った。パリでは、日本語の週刊誌「巴里周刊」の刊行し、 戦前のパリの日本人アーティスト、外交官、芸術家、俳優、スポーツマンの集まりを開催し、日本人コミュニティの中心人物となった。戦後、彼は妻の故郷西城に移住して、そこで大石と出会った。 パリ時代をモデルにし、石黒は中央線沿線に住む文化人を集めて、カルヴァドスの会をつくり、初代会長となった。すでに 中央線沿いには多くの文化人が住んでいたので、西荻の、それも駅から近い「こけし屋」はうってつけの場所だった。初期の参加者の多くは、フランスからの帰国者であった。参加者は、起業家、漫画家、大学教授、作家、評論家、監督、ミュージシャン、および彼らの女性の仲間たちであった(全てではないが、 集まった文化人のほとんどが男性であった)。
カルヴァドスの会は「文化人の町・西荻」のイメージに大きく貢献した。 1949年から1983年まで活動した会では、スピーチ、美術展、学術的なディスカッションだけでなく、1950年代にはストリップショー、1960年代にはファッションショーなど、豪華で記憶に残るパーティーを開催した。 しかし1980年代には、会合は毎年一回に減り、メンバーは亡くなったり、あるいは高齢化が進み、そして会は解散した。
フランス通が多い常連客に触発され、大石は1951年にフランスのベーカリー(ケーキ販売)を、1953年にフランスレストランをオープンさせた。フランス文学者小松清志の妻、小松妙子は、大石のコンサルタントとして働き、最初のメニューをつくった。 フランスで長年暮らしてきた彼女のポリシーは、「レストランではホテルの料理を提供するべきではなく、家で食べるものを提供する」ことであった。 そのポリシーを受け継ぎ、現在でもこけし屋の最も有名な料理は、ビーフ・ブルギニョン、ポトフ、カレー、タマネギ・オニオングラタンスープなどのフランス風家庭料理だそうだ。 今、周辺の若い料理人たちは、このメニューを「フランス料理」ではなく「洋食」だと指摘するが、こけし屋では伝統的な家庭フランス料理とし提供している。
西荻の南口を出て左に曲がると、今の「こけし屋」の細長いモダンビルを見つけることができる。西荻で知らない人がいないぐらいのケーキとフランス料理の老舗店である。六階建て(要確認)の本館と二階建ての別館を持つ、現在は株式会社の料理店である。
今でこそ日本におけるフランス料理店は、レストラン、ビストロと普通に見かけるものになったが、「こけし屋」ができたころはどうだったのだろうか。
インタビューしたのは、こけし屋勤務40年以上になる店長の川上貢さんだ。彼はまず、長い「こけし屋」の歴史について駆け足で話してくれて。
「最初、ここは洋服屋さんだったんですね。先代で創業者の大石総一郎が早稲田大学に入ったら、親戚がみんな、『おまえ、大学に入ったんだったらもう大人なんだから、洋服屋だろうが何だろうがお前が好きなようにしたらいいじゃないか』って言ったんです。その頃、カルバドスの会の会長の石黒敬七さんが近所に住んでいて、先生をかわいがってくださっていて、その石黒敬七さんに相談して『先生、親戚のものがみんなわたしに好きなようにしろしろっていうんですが、わたし、コーヒー屋さんをはじめたいんですが、先生、どう思いますか?』って相談したんです。そしたら、石黒敬七さんがコーヒーが好きで、そらだったら淹れて持って来いっていったんです。それで、淹れて持っていったら、『ダメだ』『ダメだ』『ダメだ』……『あ、これだったら大丈夫だ』っておいしいコーヒーになったっていうんで、これだったらお店開いても大丈夫だっていうんで、喫茶店をはじめたんです。」
この頃の「カルヴァドスの会」の写真を見せていただくと、先代の大石総一郎さんはまだ早稲田大学の学生服を着て笑っていた。
フランス料理はホテル以外の場所ではまだ珍しい時代だった。
「この辺でフランス料理屋はなかったです。その頃は東京…この辺も洋食屋自体が少なかったですからね。天ぷらとかはあったけど、西荻でレストランというとここだけでした。」
「その当時、まず、フォークとナイフで食べる場所が少なかった。みんな箸ですからね。そこら辺にある定食屋なんて、ご飯に何かと味噌汁かお吸い物でしょ。フォークにナイフって珍しかった。だからあの、うちのお客様で親子二代、三代っていらっしゃいますけど、最初にフォークとナイフで食事したのがこけし屋だったという方もいらっしゃいます。そこで食べた料理がってんで、それがすごく思い出があるって、それでカレーとかシチューだとかポトフだとか、ずーっとメニューに残してるんです。」
家族代々知っているお店ということだが、その頃の住民にとってはどんな位置づけの店だったのだろうか。
「杉並っていうところはけっこうお金持ちの方が多いんです。で大きな家に住んでいる人がたくさんいたんですよ。今は知らないけど、杉並区は区民税が一番高いと言われていたんですよ。
その当時の都立西高の生徒さんとか、卒業して働き始めて給料もらったら『絶対にこけし屋で食べるぞ。』という希望を持って通っていたという方もけっこういらっしゃいましたね。それにね、駅からけっこう近いでしょ。通ると、文化人と言われる先生たちが飲んで騒いでいるわけですよ。『あの先生が行っているんだったら行きたいな~』と。でも、高校生だと行けないでしょ。お金がないし。フランス料理というものへの憧れと、文化人の人達が行っているという憧れと両方があったと思います。やはりみなさん、卒業してOB会とかあるでしょ。そんなとき、『昔はね、高校卒業して働いたら、こけし屋行こうって思っていた』という話、聞いたことがあるんですよ。」
文化人たちが集い、その頃は都心のホテルに行かないとない、ナイフとフォークで食べる西洋料理が食べられる「レストラン」。庶民にとっては高価で、特別なときでしか入ることができない場所。それが「こけし屋」だったようだ。「レストラン」という未知の場所と「フランス料理」という未知の食。この両方への憧れが具現化されていたのがその時代の「こけし屋」だったのだと感じる。
こけし屋のフランス料理は、小松妙子さんの監修だが、料理人たちの指導はどのように行われてきたのだろうが。
「最初、フランス料理屋はなかったから、ホテルにいた方が最初に入ったんです。そのシェフを中心に…今は調理師学校を出てくる人が多いですがね…昔はね、中学を出てこういった飲食業で修業した人たちがいるんですよ。そういった人たちは、フランス料理の知識はゼロなので、こけし屋の味しか知らないんですよ。その人たちが長くいた順にこけし屋のシェフになったんですよ。」
「うちのお店で一番いいのは駅のそばということ。」
迷わずすぐにお店に行ける地の利がいい立地なのも、遠方からやってきたり、幅広い年代だったりの会食や宴会をするにはもってこいのようだ。
ここで会食、宴会をする人たちは現在、杉並区住民が多いとのことだ。家族二代・三代とこけし屋で利用したことがある家族が集うとき「初めて食べたレストランの料理」「初めての誕生日で食べたビーフシチュー」「初めて給料をもらって買って家に帰ったケーキ」と、同じ場所でそれぞれがそれぞれの思い出のものを口にすることができるからだろう。
昔と今でお客の好みも変わったのだろうか。
「好みですか?年代によって違いますね。今の日本人は百歳まで生きるでしょ。だからさっき言ったお誕生会とかあるでしょう。九十歳のお祝いとかで、フォークとナイフで食べられる元気があるでしょ。七十、八十歳だと、今、年寄りじゃなくなってますよ。九十歳のお客様には昔ながらのもの。」
「新しいものだと、例えば、今やっているメニューではスペイン産のイベリコ豚を料理に取り入れたり、みなさんがしょっちゅう『食べたい』というものを取り入れるようにしています。シェフがね、いろいろ。」
お客の年齢層が広いため、今流行りのものに合わせればいいというわけではないようだ。
こけし屋は、店自体も有名だが、「朝市」も有名である。朝市についてもうかがってみた。
「朝市をはじめて38年になるけど、どうしてあれをはじめたかというと、荻窪と吉祥寺の町がどんどん大きくなって、西荻ってここ、二つの町の谷間でしょ。お客さんを呼ぶことを何かできないかっていうことで、社員みんなで考えたんです。じゃあ、朝、駐車場が空いているから、ここを使って朝市みたいなものをやっちゃおうか!それがはじまりなんです。」
「最初は、朝市でも社員が全員出て、作ったものを売るだけだったの。そしたら『こけし屋さん、せっかくあったかいものを売ってくれるのはいいんだけど、食べる場所を作ってくれないと困るんじゃない?』って言われて、どんどん食べる場所が増えていって、それで、『フランス料理には赤ワインがいるんじゃない?白ワインもほしい』って。で、ワインも用意しようかっていって、それで、当然朝市だから、朝市値段でしょ。当然安いでしょ。それがどんどん広がっていって、今じゃすごい人数の人が来ますよ。若い人などは、グループでボトルとってワインなど飲んでる。普通朝から飲んでると『なんだ?あの人は?』ってなるけど、朝市だったら大丈夫。それで、いろんな売り場あるじゃないですか、それでみんないろんなもの買ってきて並べてつつきながら飲んでる。」
川上さんが考えたこけし屋朝市のキャッチコピー『月一度、朝の贅沢』。朝の贅沢は38年間、衰えることなく続いている。
こちらの朝市の客層は、西荻窪、杉並区以外にまで広がっていっている。
老舗のレストランというイメージが強いこけし屋だが、ケーキが食べられる喫茶店、高級なフランス料理屋、手ごろな値段のカジュアルなレストラン、誰もが気軽に立ち寄れる朝市という、実は多方面からお客にアプローチしている店である。
そんな多方面からのアプローチとしてもう一つ。こけし屋では、デリバリーもやっているそうだ。
「昔からたくさんやっていますよ。ケーキとか、料理とか。普通の家庭に。友達がたくさん来るから届けてくださいとか、クリスマスはケーキとか。お正月はオードブルのセットとか。たくさん届けてますよ。フランス風のお節料理とかね。クリスマスケーキは昔の方がよく出ていましたよ。その当時はケーキ屋さんも少なかったし、誕生日とクリスマスの年に二回くらいなので、せっかくならこけし屋さんで、とね。届けている料理は、ビーフシチューとかね、あと、お酒飲むからオードブルを、とか、おばあちゃんが具合悪いからスープを飲ませてあげたいからスープを届けて、とか。
ですからあの、地域に密着っていうかね。あとね、商いっていうのは、自分の都合でやるのではなく『お客に合わせて』っていうのがあるからね。」
今では当たり前のデリバリーや宅配だが、こけし屋の場合、時代が来たから乗ったのではなく、お客のニーズに合わせてそれに応えてきた結果が今に至っていると感じる。
レストランでは、近隣の子どものためにテーブルマナー教室も実施している。
「 わたしの店で年に二回とか三回とか、テーブルマナー教室をしてるんですよね。親が作ったものをいらないというのはねー、世界には餓死している子どもがたくさんいるのに。テーブルマナー教室は、日本観光レストラン協会と一緒にやってます。そこを中心にして夏休みの親子テーブルマナー教室というのをやっています。今年もやります。マナー悪くていいんですよ。そこで勉強するんですから。」
商売としては当然のことなのだろうが、お客がどうしてほしいか?を考えながらそれを具現化して六十八年間「あきない」をしてきたのがこけし屋なのだろう。
フランス料理屋という枠で考えるよりも、フランス料理という手段で地域に密着していったビジネスモデルとしてみた方がいいのではないだろうか。もちろん、たまたまとはいえフランス料理という手段をチョイスしたことが、時代・お客・地域にフィットし店の拡大に最も貢献してきたことを見ると、創業者と「カルヴァドスの会」にいた人々に、ビジネスをやる上での先見の目があったといえるだろう。(ファーラー、木村、2月17日2017年)
参考文献:
大石よしこ(2015)『カルヴァドスの会:無礼講の酒に集う』博秀工芸。