西荻窪:狭間の町
西荻の都市化
「西荻窪は狭間の町、交差点の町だ」。西荻窪をこう表現したのは西荻の歴史に詳しい太田哲二氏である。太田氏が指摘しているように、西荻窪は最近まで西荻窪という単独の場所ではなく、単に他の町と町の間の場所とみなされていた。今日でさえも、西の荻窪、東の吉祥寺、南の高井戸の方がはるかによく知られている。では、いつ、どのように西荻窪が「町」、そして控えめであるが有名な町になったのだろうか?これは文化的な物語と物質的な発展についての問題提議である。
ここで我々が問題としていることは、場所として確立していった過程だ。これは一体どういうことなのだろうか?そもそも現在「西荻窪」と認識されている町はいつできたのだろうか?そして、いつから町が都市としての機能を持つようになったのだろうか?ここで言う「都市化」とは、町がそこにいる住民たちにとって交通・電気水道・電信などのインフラ、病院や学校などの公共施設・生活に不自由がない店を有した状態と仮定する。
今回の話は、これまでのように食文化に焦点を当てたものではない。しかし、「食」は何らかの役割を果たしているかもしれない。
簡単に言えば、西荻窪が西荻窪という場所になったのは、鉄道の駅にはじまり、後に「町」になったということだ。「西荻窪」という名称のみで言えば、1922年(大正十一年)に西荻窪駅ができたのと共に存在しはじめている。西荻窪駅ができた当初は北口のみしかなかった。南口ができたのは1938年(昭和十三年)である。そのため、北と南で発展した時期が異なる。そもそも、駅ができる以前にいくつかの村があったところにまずは線路ができ(甲武鉄道・現:中央線 新宿―立川1889年・明治二十二年)、線路によって北と南が分断されている。
では、「西荻窪」の町の名前の由来である駅を中心に見てみよう。駅が開設された当初、北口があった線路より北の地域は、元井荻村である。その井荻村も1889年(明治二十二年)の市町村制により江戸時代の上井草村・下井草村・上荻窪村・下荻窪村が合併しできた村である。1926年(大正十五年)の町制により町になっている(『目で見る杉並区の100年より』)。一方、線路の南側で現在の松庵は高井戸町であった。そもそも、西荻窪駅ができた1922年頃は、駅の周りには人家がほとんどなかったため、集落と駅を繋げるために青梅街道から西荻窪駅までの道、北銀座通りが新設された(『目で見る杉並区の100年より』)。もちろん、駅ができた当初は駅周辺に商店街も飲み屋もなかった状態が、「目で見る杉並区の100年」に掲載されている写真からも、うかがえる。
明治二十七(1894)年。まだ西荻窪駅もない時代。ほとんど農地である。➡ 昭和十四(1939)~十五(1940)年になると、農地が家に変わっていっている。
■地図A
■地図B
しかし、太田氏の発言が示唆しているように、町は単に駅によってだけつくられていくわけではない。 駅の開設前後には都市開発の計画と実行があった。 西荻窪地区の分断された性質は、複数ある神社の檀家とその祭り、近隣の商業団体の複雑な縄張り関係、そして消防と警察の組織でも見ることができる。
まず、神社を見てみよう。神社は「住民たちが一つにまとまり」祭りを行う中心である。九月から十月に行われる秋祭を例にとると、春日神社(1600年~)・荻窪八幡神社(1100年~)、松庵稲荷神社(元は円光寺だったが、廃仏毀釈運動により廃寺となり、境内に祭られていた稲荷神社が村の鎮守となった。『西荻観光手帳より』)、井草八幡(本殿は1664年~)と四つの神社が中心となり、合同ではなく「それぞれ」で行われている。この神社の管轄も線路の北と南できっちり分かれているわけではなく、仲通街は荻窪八幡の管轄で、仲通街出て突き当たる新田通りまでとなっている。
次に商店街。ここでは商店街として行事をするときにまとまる単位で考える。商店街が細かく分かれてしまっている点については、駅の北口と南口ができた時期が違うこと、1918年に東京女子大ができたことにより女子大へ向かう北西への道・女子大大通りが発展したこと、1924年にも中島飛行機ができ、そこへ向かう人たちが通る北へ向かう北銀座通りが発展したこと、また、 大震災(1923年大正十二年)後避難民が移住してきたことでの商店街の活性化など、時期、発展の理由が異なるためであろう。今も駅の周りに二十五ほどの商店街があり、西荻窪商店街としてまとまってはいない。
現在にまで至る行政という面から見てみも、町の狭間性が見える。旧村町の合併・駅の出入り口ができたタイミングなどにより、警察署・消防署・役所の管轄も複雑に入り組んでいるようだ。杉並警察署が1926年(大正十五年)にでき、1935年(昭和十年)に町勢拡大に伴い荻窪警察署が荻窪八幡神社前にできる。この後、西荻警察署ができることはなく交番のみしかない。西荻窪と考えられる一帯は荻窪署と高井戸署で管轄している状態である。そのため、駅周辺で事件が起きるとちょうど二つの警察署の管轄境目辺りにある仲通街には、荻窪署と高井戸署の両方から聞き込みなどがあると、仲通街の老舗ジーンズショップ・オークランド(1951年~仲通街で店舗営業。開店当初は『つるや貿易株式会社』)のオーナー、多田氏が語っていた。
■荻窪署の管轄区域 (荻窪署ホームページより)
高井戸署の管轄区域 (高井戸署ホームページより )
管轄区域・・・杉並区内の、堀ノ内1丁目、方南1~2丁目、和泉1~4丁目、大宮1~2丁目、永福1~4丁目、下高井戸1~5丁目、浜田山1~4丁目、高井戸西1~3丁目、高井戸東1~4丁目、上高井戸1~3丁目、久我山1~5丁目、宮前1~5丁目、西荻南1~2丁目、松庵1~3丁目
村から町へ、西荻窪の都市化を見る
ここまで見てくると、西荻窪はまとまりがない状態でありつつ、それが駅と道路でつながっている状態といえるだろう。この町をつくる元となった西荻窪駅の開設にはその当時の井荻村村長である内田秀五郎(1876年~1975年、1905年・明治三十八年井荻収入役就任、1907年・明治四十年村長就任)氏の貢献が大きい。人口拡大を見込んで吉祥寺と荻窪の間に西荻窪駅の新設と、地主を説得したのちの北銀座通りを開通させている。付録の西荻窪年表で詳しく記すが、内田氏の主導で都市としての要素、交通・電気水道電信・病院や学校などの公共施設の設置が行われている。西荻窪で人口拡大というと、よく、関東大震災(1923年大正十二年)によって都心から疎開者が流入したことによると言われる。しかし、西荻窪駅の開設は震災前の1922年大正十一年である。北銀座通りの整備はその前年1921年大正十年に着手されている。電気が引かれたのもこの年である。震災の前にすでに人口拡大を見込んで整備がすすめられ、整備されているからこそ様々な職種の疎開者がやってきたものと思われる。そして、その後、大きく人口が伸びた要因として、震災翌年の中島飛行機の誘致(1924年大正十三年)によるところが大きいと考えられる。
では、その人口拡大の様子を、地図と数字から見ていってみよう。数字に関しては行政区分が複雑なため、ここでは最初に発展した駅の北側、井荻村の数字で見ていく。
■地図C
前出の明治二十七年の地図Aでは、西荻窪という名称は見られない。線路北西から、「吉祥寺」「上荻村」、線路南西から「松庵村」「高井戸村」の名称が見られる。この時点ではまだ「西荻駅」はできていない。
昭和七年の地図Cになると、西荻窪駅があり、駅の北側に、西から武蔵野吉祥寺村、西荻北一丁目~四丁目、上荻二丁目~五丁目、上荻二丁目~四丁目、桃井一丁目駅・駅南側に西から松庵三丁目、西荻南一丁目~四丁目、宮前三丁目、荻窪南四丁目、下荻久保村の名称が見られる。
西荻窪の駅ができてから「西荻窪」の名称が出てきたと考えられるが、西荻窪のみの名称でまとめらてはいない。
■名称の変移は以下のようになる。(杉並風土記 上巻)
大正時代(1912〜26年)には、西東京地域の人口が急増した。西東京の人口増加は、1923年に東京を壊滅させた関東大震災によって西荻窪のような農村地への疎開が直接的な原因と考えられることが多い。しかし、西荻窪の場合をみると、人口増加の話もそれほど単純ではない。前にも述べたが、西荻窪駅は、すでに地震の一年前の1922年に開設されている。北銀座通りの開発も地震の二年前の1921年に始まり、同年には電気も引いている。これらのことからも、人口の増加は単に地震による避難者の増加によるものだけではなく、都市基盤と都市施設の発展によるところも大きいと考えられる。また、逆の見方をすれば、都市基盤・都市施設の発展が地震の疎開先として選ばれる要因ともなり、より人口増加を促したともいえる。
人口の増加していく状況を数字で見ていくと以下のようになる。
1922年に関東大震災が起こっているが、それ以前から徐々に人口は増えていっている。1924年は中島飛行機が誘致されている。そのために人口増加の割合が大きくなってと考えられる。
もともと農地だった村の、農業従事者はどのような変化をしているだろうか。
農家の数は1916年と比べると21戸の減にとどまるが、全体の戸数に対する比率は67.83%から22.86%と44.97%減となっている。特に中島飛行機誘致後に農業従事者外の戸数が急激に増加している
では、どのような職業が増えているのだろうか。
この時期に世帯数と人口が増加しただけでなく、職業も急速に変化していった。さまざまな職業の人々がこの地に居を構えている。グラフのように、商業・銀行・会社員・官公吏・教師・学生・医師となり、店、銀行・会社・役所や軍・学校・病院が西荻、もしくは通勤範囲内にできたこと考えられる。無職は専業主婦や働いていない年配者だろうか。そのあたりはこのデータのみでは不明。農業従事者の場合、家族全員が働き手である場合が多いので、農業従事者以外の配偶者とも考えられる。
では、職種を詳しく見てみよう。
農業従事者がトップであるものの、農業以外の職業が増えていることがわかる。中島飛行機設置により会社員の増加はうなずけるが、商業者の増加は商店街の発展を示唆するものではないかと考えられる。
このように、震災前から人口は徐々に増え、震災で疎開者が、そして中島飛行機の誘致により一気に人口が増えていることが数字からもうかがえる。
付録の西荻窪年表からもわかるように着実に場所としては都市化してきている。しかし一方で、西荻窪は駅と道路でつながれた「西荻窪としてまとまったものではない」集団の寄り集まりであり、駅周辺はまさに交差点・狭間だと言える。
1926年(大正十五年)、現在の西荻南に開店した三ツ矢酒店の店主、鴨志田総一郎氏の著書に次のような記述がある。「関東大震災以降の西荻窪はまさに新開地。それを知って、先を見越して開業したのですからしょうがありません。その頃の店頭風景の写真を見るたびに、さぞかし父の苦労はいかがばかりかと感じざるを得ません。前途多難を感じて船出した三ツ矢酒店。しかし、関東大震災の直後、山の手から武蔵野に続く新開地、西荻窪の新住宅地の発展が始まっていきました。もともとの地主さんのご理解で、次々と新しい住宅も増え、得意先がポツポツと増えたのがこの頃だったそうです」(清酒と共に時代を生きた三ツ矢酒店の名物親爺が語る 今宵はどの銘柄になさいますか 著者:鴨志田総一郎 より)
この記述から、地主が持っていた土地が住宅地として切り売りされていった様子がうかがえる。もともと持っていた地主が違うため、例えば「回覧板」を回したり、「寄り合い」をしたりする集団が違っていたことも考えられる。ここについては今後も調査をしていきたい。
仲通街老舗ジーンズショップ・オークランド店長多田氏の話によると、第二次世界大戦後は、土地が安いという理由で多くの人が移住してきたそうだ。また、戦後、1961年(昭和三十六年)に中島飛行機後の富士精密工業が日産のプリンス自動車工業となり、そこで働く人々が西荻窪に居住したり、駅を利用したりで、飲食店も含めた商店街も賑わっていたそうである。これを機に、町の都市化が充実していったと考えられる。しかし、その工場も2001年(平成十三年)には移転し桃井原っぱ公園となり、商店街の様子も変わっていったようだ(すぎなみ学倶楽部より)。
西荻人になる:西荻プライドのアイロニー
先に述べたように、大正時代から昭和初期にかけて西荻窪の都市化がほぼ完成したと言えよう。 1964年の東京オリンピックまでの鉄道の高橋化は、 駅の北と南のより良いつながりを残しつつ町の顔をさらに変えた。 1960年代の高度成長期には、駅の近くにいくつかの新しいビルが建設された。 60年代に二階建て木造建築だった喫茶店を六階建てに建て替え、近代化したこけし屋レストランがその一つだ。しかし、西荻窪のご高齢の方からうかがったところによると、この地区の最も注目するべき特徴は過去数十年間、町の外観の変化があまりないということである。西荻窪は、荻窪や吉祥寺といった近隣の町を激しく変えた都市再生を免れた。西荻窪は、「狭間」の地位で守られた低層の建物群の町であるが、小規模経営のオーナー達に対しては適した基盤を提供してもいる。この高層化への発展の遅れが昨今の西荻のアイデンティティーの元になっているのかもしれない。しかし、この西荻窪人プライドはごく最近のものでありそうだ。
今、「西荻窪」と呼ばれている地域に住んでいる人たちは「西荻窪」をどう捉えているのだろうか。
西荻 アイデンティティーの発達に関しては、私たちがまだ学ばなければいけないことが多い。戦後、一部のレストランや店は地元の誇りとなり、ランドマークとなった。しかし、「西荻窪人プライド」という感覚はやはり最近のもののようだ。
西荻にながく住んでいるご高齢の方数人に話をうかがったところ、「出かけるのは西荻の外」ということをおっしゃる。「おいしいものは銀座に食べに行くわよ。西荻にはおいしいお店はないもの。」といった言葉まで返ってきてしまった。太田氏の話によると、以前の西荻窪、特に南荻窪あたりには、軍人、政治家、社長などが居を構え、平日の朝ともなれば彼らを送り迎えする黒塗りの車がずらりと並んでいたそうだ。そんな彼らが食事に行くのは銀座などの都心。西荻はあくまでもベットタウンだったのだろうか。そこに西荻窪人としてのアイデンティティー、「西荻窪人プライド」はあまりないように感じる。いやいや、「こけしや」は、中央線沿いにできた初めてのフランス料理のレストランであり、文化人たちが集まり、みんなが憧れていたではないか!という意見があるかもしれない。日本を代表するヒッピーがはじめた店「バルタザール」もあるではないか!という意見もあるかもしれない。確かに、これらはある意味、西荻窪の「ランドマーク」であるとも言えよう。だが、住んでいる人間ほとんどがこれらにアイデンティティーを見出しているか…というと疑問が残る。とはいえ、ながくこの地に住んでいる人もそうでない人もよく口にするのが「便利な町だ」という表現だ。「ちょっと歩けばたくさんの飲食店がある。」「新宿といった都心も近い。」「隣は人気の吉祥寺。」といった理由を話してくれる。
一方で、西荻窪に住んでいることを誇りとし、西荻窪を盛り立てようとする人々もいる。2016年からスタートした西荻ラバーズフェスの主催者たちはその最たる人達かもしれない。現在ある、もしくはできつつある「西荻窪の町としてのアイデンティティー」「西荻窪人プライド」は、もしかしたら西荻に住むそんな人たちによってつくられているのではないだろうか。確かに、西荻を誇る感覚は、最近移住してきた人々の中で強く、また、柳小路にある小さなバーのような下町的な雰囲気を楽しんでいる人々の中でも強いようだ。そして、他の都市と同様、特に若い新住民達は「今の西荻窪の町並み」を守りたがっている。
雑誌「HANAKO」の2015年3月号の表紙を飾った特集記事は「吉祥寺:日本一住みたい街 vs 西荻窪:日本一知りたい街」であった。このタイトルからも西荻窪の狭間的な町のイメージが感じ取れる。しかし、西荻窪独自の魅力はありそうだ。西荻窪は最近はよくマスコミに取り上げられ、休みの日ともなれば西荻窪以外から来る「観光客」で賑わっている。西荻窪を盛り立てようとする人々からすると「西荻バブル」のように見え、彼らは、西荻窪が吉祥寺と同じような「よくある地方都市化」してしまうのでは、という恐れを抱いているようだ。
今年2018年2月末日、戦後すぐの1945年・昭和二十年(1945年8月15日 第二次世界大戦日本終戦)から西荻窪駅北口の前に立っていた喜久屋商店が閉店する。 低層の古い建物は解体され、新しいビルに建て替えられる可能性が高い。もしかすると、西荻窪の「狭間の町」的な性質は、他の中央線沿いの駅の激しい商業開発から西荻窪という町を救ったのかもしれない。西荻窪人 は、ここがスターバックスのない唯一の駅であることを誇りに思っている。しかし、西荻窪が「知りたい場所」になってしまったことは、西荻窪の本質をも変えてしまう可能性がないとは言えないだろう。(ファーラージェームス、木村史子、1月29日2018年)
付録: 道路・ライフライン・公共施設などが整っていく様子を年表で見る
■西荻窪年表
参考資料
■目で見る杉並区の100年 郷土出版社 発行:2012年6月15日
■西荻観光手帳 西荻窪商店会連合会 猪鼻徳壽 「西荻観光手帳」編集部 西荻案内所 発行:2015年2月28日
■井荻村郷出誌 桃井尋常高等小学校 桃井尋常高等小学校地歴研究部 発行:大正14年(1914年)6月
■杉並郷土誌叢書3 杉並風土記上巻 著者:森泰樹 杉並郷土史会 発行:昭和52年(1977年)6月30日
■内田翁の喜寿を祝して諸家の渾毫 発行所:内田秀五郎喜寿祝賀会 発行:昭和27年(1952年)11月1日
■JR中央線 町と駅の1世紀 彩流社 発行:2014年7月1日
■杉並の地図をよむ -描かれたもの 隠されたものー 杉並区文教氏博物館 発行:平成14年(2002年)10月26日
■躍進の杉並」 南雲武門編 杉並公論社 発行:昭和11年(1936年)5月2日
■中央線の詩 下 朝日新聞東京総局 文:三沢隆 写真:千葉康由 第1刷発行:2006年6月14日
■無礼講の酒に集う ガルヴァドスの会 著者・発行人:大石よし子 発行:2015年10月吉日
■荻窪風土記 井伏鱒二 新潮文庫 発行:昭和62年(1987年)4月25日発行 平成26年(2014年)11月5日12刷改版
■清酒と共に時代を生きた三ツ矢酒店の名物親爺が語る 今宵はどの銘柄になさいますか 著者:鴨志田総一郎 発行:平成22年(2010年)12月12日
■杉並区中央線沿線火災保険図 (株)都市製図者作製
■前面航空地図 東京大阪名古屋 全住宅案内地図帳 公共施設地図株式会社 渋谷逸雄 発行:昭和44年(1969年)1月1日
■西荻街歩きマップ 2016版 2017版 ©西荻案内所
■荻窪署ホームージ 荻窪1~3丁目の署境が複雑に入り組んでいるのなぜ
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/ogikubo/why/why.htm#12
■すぎなみ学倶楽部 https://www.suginamigaku.org/2010/11/nakajima-hikoki-3.html