スタバがない街のコーヒー職人
西荻の住民の中には、人気の中央線沿線エリアであるにもかかわらずスターバックスがないことを自慢げに語る人がいる。個人経営のレストランやカフェが多いことを誇りに思う人も多いが、実際には他のチェーン店は出店しておりコーヒー店の競争は激しい。とはいえ、西荻に古くからある喫茶店では、チェーン店にはまねのできない個性で、変わらず人々の憩いの場となっているところも多い。数十種類の生豆が並び、店頭でその焙煎を行い、狭いがコーヒーを飲めるスペースがある。西荻で何十年もの間その存在感を示し続ける、豆にこだわるコーヒー専門店「豆の木」もその一つだ。
豆の木は、西荻駅の南側を東西に通る神明通りにある。豆の販売を主体に喫茶スペースも展開し、1986年から地域で親しまれている。周囲にはコーヒーの芳ばしい香りが漂い、入るとすぐ、筒状の大きな数十個のガラス容器に入った豆と麻袋から覗いている豆が目に入る。豆を選び包んでもらうまでの間、マスターが小さなマグカップに入った自家製水出しコーヒーをサービスしてくれる。家庭用の豆の他、西荻のレストランやカフェの経営者らが業務用に豆の木の豆を購入することも多い。新潟にあるカフェから配送を依頼されることもあるそうだ。マスターの山本正雄(やまもと まさお)さんは、もともと東京の神田でコーヒー関係の仕事をしていた。そのときから豆にこだわった店を開きたいと考え、幼少期から慣れ親しんでいた西荻での独立を決めたそうだ。
「その当時、ドトールっていうのがちょっと出始めた頃。ドトールっていうとどちらかというとドリンクが主体ですからね。それで私はお豆を販売する方に力を入れたお店をやりたいという思いで独立したんです。」
すでに焙煎されてストックされている豆を使いマシーンでコーヒーを淹れるドトールなどのチェーン店に対し、山本さんは、日々焙煎した新鮮な豆を販売し、喫茶スペースで提供するコーヒーは焙煎したての豆を使い毎日十時間かけて水出したもので味に違いを出している、と話す。
通常の焙煎機で焙煎するコーヒーは、ガスが燃焼する際に発生するごく微細な煤が豆に付着してしまう。しかし豆の木の焙煎機は電気を熱源とするため豆に煤が付かず、すっきりした口当たりのコーヒーに仕上がる。山本さんは私たちに、開店当初から使用していた焙煎機と現在使用している焙煎機を見せてくれた。
どちらも熱風で豆を煎る仕組みで、当時はまだ珍しい技術だったそうだ。豆の種類によって、時間と温度、風量を全て山本さんが設定する。生産国の気温によって豆の大きさや水分の含み具合が異なるため、焙煎にかかる時間も変わるのだそうだ。
山本さんは、三十二年前と現在の豆の違いも教えてくれた。
「豆自体は昔の方が良かったです。昔はお豆の質を生産者の方も…。今は量ですね。量産的ですから、豆自体の質が落ちています。お豆を向こうで乾燥するのも、今は機械で電気でしている。昔は日陰でとか、やっていましたから。いまは量を重視していますから、どうしても質的には…。」
「あと、やはり世界各国でコーヒーを飲むようになった。日本でも三十年前と比べますとだいぶご自宅で飲む量も増えていますから。そうすると世界全体で量の方にいっちゃうんですよね、生産者も。量を少しでもとって、外貨を稼ごうって。」
コーヒーの需要増加が豆の質にも影響しているようだ。客全体のコーヒーを飲む量も増加している。客が求める豆の傾向も変化している。昔はソフトな口当たりのコーヒーが主流だったが、現在は苦く芳醇な豆が人気だ。マンデリンやグアテマラなどのダークローストがよく売れるそうだ。客が豆に詳しくなったこともあり、二十〜三十代くらいの客も増え、若い女性が一人でコーヒー豆を買いに来ることもあるらしい。
山本さんは今年で七十三歳になる。体力的にも店を一人で切り盛りするのは厳しいそうだ。以前は奥様と二人で店を回していたが、現在は寝たきりの状態だそうだ。
「どちらかというと仕事よりそっちの方が疲れる。介護とか。昼間はヘルパーさんと看護婦さんに来ていただいて。朝と夜はもう私が。そっちの方が疲れる。」
比較的店に余裕のある時間帯でのインタビューだったが、多くの客が豆を購入しに訪れ、コーヒー豆の予約の電話が頻繁に鳴っていた。人気店を一人で経営するだけでも大変なことである。それに加え、高齢になってきたこと、プライベートでかかえる介護は大きな負担であろう。しかし仕事は楽しく、ずっと続けていきたいと語ってくれた。
神明通り商店街の他の店も、三十年前と比べると少なくなってきているそうだ。跡を継ぐものがいなかったことでたたまれた店もある。高齢化の影響は商店街全体に及んでいるのかもしれない。
その一方で、近年西荻の商店街に復活の兆しが見えている。神明通り商店街が月に一度行なっている朝市は、ここ数年とても盛況だ。参加する店も訪れる客も増加傾向にある。新しい店や若い世帯が西荻に惹きつけられるのは、そうした商店街の取り組みの成果かもしれない。そして、朝市の日は、豆の木の豆も早くから売り切れてしまう。
山本さんのコーヒーへのこだわりが、豆の木を長い間西荻の人達に愛され続ける店にしたゆえんだろう。コーヒー競争が激化する現在にあっても、他の店とは違う魅力に多くの客が惹きつけられている。そして、豆の木の歩んできた歴史は日本のコーヒー産業の移り変わり、そして高齢化へと進む日本社会の課題を垣間見せてもいる。古くからある店・場所に古きも若きも共に集い、地域が賑わう。西荻の活性化の秘密かもしれない。これは、高齢化日本の商店街の活性化の道とも重なるだろう。(ファーラー・ジェームス、河合真由子、木村史子、9月8日2018年)