パンジャブのレストラン窓の遠景
「旅」は外国料理を提供する多くのレストランのテーマであるが、この料理の「旅」にも複雑な文化的出会いがある。 パキスタン人が経営する「ラヒ パンジャービー・キッチン」は、パキスタンへの料理旅行に顧客を呼び込む小さな隠された空間であるが、一方で徹底的に日本の中へ適応する環境をつくりだそうともしている。 そこには移民の料理職人が地元の人気飲食店となるための苦心が垣間見られる。
西荻窪駅の南口から出て右へ。北銀座通りを渡り高架沿いの道を少し歩いて小さな路地へ入る。緑豊かで静かな路地裏だ。ここに、パンジャブ料理店、「ラヒ パンジャービー・キッチン」がある。ひっそりとした路地裏だが、ラヒが入っている建物はレトロでシックなレンガ造り風で存在感がある。レストランは二階。階段を上がると、閑静な路地裏の雰囲気と全く違った世界である。ドア越しから聞こえるエスニックな音楽やカレーのスパイスの香り。階段の小さなスペースには、日本では見かけない小物や置物がある。どこか異国を旅している雰囲気だ。ドアを開けるとオーナーのラヒーさんが笑顔で出迎えてくれた。
ラヒは2005年11月にオープンし、今年で十二年目を迎える。西荻窪で長く営業しているレストランだ。ラヒーさんの本名はハナダ・ムバシル・ラヒーム。レストランの名前、ラヒはラヒームのムを取ってつけられた名前だ。ここのレストランをはじめてから、ラヒームさんはみんなから「ラヒー」と呼ばれるようになった。
「店を出してからラヒーって言われるんですよ。で、ラヒーの意味はウルド語で旅人っていう意味なんですよ。旅人っていうイメージで店づくりも同じで、別のところに行っているような感じに作ったんですよ。来る人たちは旅をしている感じで、パキスタン料理を食べて、風景も見て、帰るっていうイメージです。」
ラヒーさんのレストランのテーマは「旅人」。お客にラヒーさんの故郷、パキスタンのラホールにいるような雰囲気を味わってもらいたいと語る。
そもそも、ラヒーさんがこの日本、西荻窪でレストランを始めたきっかけも、旅の途中での出会いだ。
「僕が日本に来たきっかけは、まぁその頃日本に来るのはたまたまっていうのもありますけど、外交関係っていうのがあるじゃないですか。外交関係でそのときはビザがいらなかったんですよ。『ビザなし』入国ができたんですよ。で、ちょうど僕、シンガポールにうちの叔母がいて、その帰り、機内で隣に座ったパキスタン人と七時間ずっと話していて。僕はちょうどパキスタンで学校を卒業して、どうしようかなという時期だったので、彼が余裕があれば来てみたらいいんじゃないかと言っていて、で遊びに来たんですよ。はじめの一週間ぐらい、彼と一緒に住んで。そのときから日本が好きになったんです。」
ラヒーさんは、日本人に本格的なパキスタン料理を食べてもらいたいという気持ちを込めて料理を振る舞っている。彼のこの姿勢は、日本に来てからの経験によるものだ。ラヒーさんは日本に来てからしばらく三鷹市の国際交流協会で働き、そこで開かれていたイベント、「世界に旅を」、でやって来た参加者達にパキスタン料理を振る舞っていた。
「三鷹市の中にいるときにも『世界に旅を』っていう企画をつくって、その国の人を招いて、トークショーをやって一緒にごはんを作って食べるっていうことをやって。パキスタン料理なので、半年に二~三回やって。あとはほかの人を招いて、それで塾をしたりとか。三鷹市の小中学生の家庭科で六組の生徒とお母さんたちと学生と一緒にごはんを作ってみんなに紹介するという。今店で出しているようなものを。お母さんたちが来るんですよ。」
ラヒーさんのイベントは評判がとてもよく、イベントだけではなく、もっと日本でいろいろな人に自分の故郷の味を知ってもらいたいという思いで店を始めた。
「国際交流協会のほかにもなにか新しいことをしたいってことで、店をやりはじめたんです。」
ラヒで出されている料理はすべて本格的なパンジャブ料理。最近よく見かけるインドとの融合料理ではない。
「自分の中ではパキスタン料理しかない。」
ラヒーさんはこう語っている。インド料理は豆などベジタリアン中心の料理だが、パキスタン料理は豚肉以外は食べてもいいため肉の煮込み料理がとても充実している。ラヒでも骨からダシをとったマトンカレー、羊のスネ肉、牛すじなど、肉をベースとした料理がたくさん揃っていた。
こういった料理には、ラヒーさんの幼少期のパキスタンでの思い出がたくさん詰まっている。ラヒーさんの話には、度々、お母さまの料理の思い出が登場する。
「ライスも特徴があって、バースマティライスってパキスタンのお米なんですけど、うちの母親がですね、自分の知恵なんですけど、白米よりもたまねぎ色のブラウンライスを使っているんですよ。ちょっと香りとコクがあるんですけど。僕も初めは白米を出していたんですけど、やっぱり白米よりブラウンライスのほうがいいなって。これもお店の特徴ですね。」
よく日本で言われる「おふくろの味」。ラヒーさんは彼のお母さんの味をラヒで再現している。
「我々のパンジャブ料理は特殊なんですけど、砂肝のカレー。これはもう小学校からずっと食べていたものなんです。パキスタンでは。今がどうか知らないんですけど、その当時は砂肝というのはそんなにたくさん手に入らなかったんですよ。砂肝は、鳥の中の胃袋はこれぐらいしかないじゃないですか、一羽に一個しかないから、一キログラムや二キログラムするには何羽も扱っているところじゃないと買えない。父が職場の帰りや行きに注文しとくんですよ。『今週、砂肝何キログラムちょうだい』って。それを持って帰ってくれて、母が調理してくれるんですよ。うちの親父がすごく好きだったんで。それで僕も同じような味を再現して出しています。」
ラヒーさんは料理だけでなく、店内にも色々とこだわりを持っている。お客にパキスタンにいるような体験をさせたい。彼の強い気持ちが店のエキゾチックなデコレーションに表れている。
「工夫はですね、二つ心がけているところがあって、一つは壁をパキスタンの夕日をイメージして作ったんですよ。サンセットの時のイメージです。パキスタンはちょっと他のヨーロッパと変わっていて、ちょっと鈍い黄色で出てくるんです。その色にしたんです。」
「もう一つは、僕はパンジャブ出身なので、ラホール、こういうものとかこういう皿を使っているんです。パンジャブの特殊なんです。」
お店には、ラヒーさんの故郷から持ってきた、お皿や座布団、パキスタンで撮ってきた写真が飾られている。フォトフレームが、まるでパキスタンの風景が見える窓のようだ。テレビから流れてくるのもパキスタン映画のミュージックビデオ。本当にパキスタンに来たような雰囲気が味わえる。
パキスタン風のデコレーションだけではなく、お客との絆もある。有名な画家の安西水丸氏は、生前ラヒの常連客だった。ラヒーさんと安西氏は深い親交があり、安西氏はラヒのカレーが大好きだったらしい。そんな安西氏の絵が店のいたるところに飾られていた。飾られている絵は安西氏のものだけではない。子供達が描いた絵も大切に額縁に入れられて飾られている。
「これは子供たちが描いてくれたんです。子供達って四歳五歳ぐらいだと、結構鉛筆でなにかがやりたいってなるんですよ。お客さんの子供達がこうやって、(僕を)見て描きたいって言うので、描いてって言うと、一生懸命描いてくれるので。子供の心を大事にしなきゃいけないと思って。」
ラヒーさんは故郷の思い出だけではなく、日本のお客達との思い出も大切にし、「ラヒの世界」をつくっている。
日本のお客達に本当にパキスタンにいるような気分を味わってもらいたい。しかし、それは、日本人のお客達が心地よく過ごせる空間でであってほしい。そんなラヒーさんの思いが伝わってくる。
ラヒーさんはラヒを開店する前、日本の知り合いのレストランでお店の雰囲気や流れを修行した。その修行の中で、日本のお客が居心地よく過ごせる雰囲気を理解することができた。
「大変申し訳ないんですが、はじめのころ、外国人にお呼びをかけなかったんですよ。なぜかというと、狭い店で外国人は座り方とかエチケットが日本人と全く違うんですよ。特に我々東アジア、中東の人から見ると、ここに座っているのに物をそこまで飛ばしたりとか、走り出したりとか。規制はしていなかったんですが、特別に来てくださいというお呼びはかけなかった。今来ている人たちはそのエチケットを守っている人達が多い。知り合いとか友達とか来ちゃうとそこに座っているのにここまで響く声を出してすごく邪魔するっていうのもあるので、それを避けていたんですよ。」
「狭い店に日本人の女性たちがいて、四人の外国人がバーバーバーと話したりすると心の中で怒っているんじゃないかと思うと心配で。友達が来ても、『今お客さんがいるから』って言って。みんな結構大げさなので、『あれ出してー、これ出してー』とか言ってくるので、日本的に、僕の雰囲気として僕には合わないと思って。」
日本にいるお客達に、西荻窪にいてもパキスタンにいるような気分になってほしいラヒーさん。そんな彼も、今課題を抱えている。パキスタンでは家族の行事が最優先。姪や甥の結婚式には必ず出席するラヒーさん。ラヒではインド人の従業員が一人いる。彼がいるにもかかわらず、ラヒーさんがパキスタンにいる間は店を五日間ほど閉めるという。その理由を彼はこう語っている。
「今雇っている従業員のインド人が、ちょっといつまでいるのかわかんないっていうのがあって。みんな僕がやっているのもあって。そうするとこの人に任せると味がね、ちょっと変化しちゃったりとか。本当はね、だいぶいろいろと修行をさせたんですけど、でも出身が違うから。彼はビハール。自分の故郷の料理みたいに作っちゃうから、パンジャブ料理じゃないんじゃないかって。残念ながら、帰る時は店を閉めなければいけないんです。」
ラヒは、ラヒーさんの故郷、パンジャブの雰囲気を呼び起こす空間であり、本物の味を提供することを目指している。 しかし、レストランで体験出来る「旅」にはデリケートな心配りが必要だ。 ラヒーは顧客に本格パキスタン料理を提供したいが、実際には顧客に合わせて味の、特に辛さを調整している。 彼はまた、日本の感性に合うようにレストランの環境もコントロールしている。
彼の料理に対する熱い想いと、お客達に対する細心の心配り。この二つの要素が、西荻窪にいながら違和感なくパキスタンを旅している雰囲気を味わえているのかもしれない。しかし、思えばラヒーさん自身がパキスタンからの旅人である。もしかすると、彼は旅人が感じる空気を作り出す特別なスパイスを知っているのかもしれない。ラヒへ来るお客達は、おいしい料理と心地のいい旅の空間を求めて、わざわざここへ旅して来る。そして、現在ラヒは「食べログ」で「西荻で最も高い評価を受けているレストラン」の一つになっているのである。 (吉山まりや,ファーラー・ジェームス、木村史子12月15日2017年)