昭和の味のパン屋
47年前から町の人達に愛され続けているパン屋、しみずや。昔ながらの佇まいの店のショーケースには、昔ながらのパンが並ぶパン屋である。お店の中にはそろばんと年代物のレジスター。
店の主人は昭和9年生まれの金原勇三郎さん。82歳、現役のパン職人である。
お名前は清水さんかと思いきや、金原さん。まずは「しみずや」の名前の由来をうかがった。
「47年前、清水よしあきさんというパン職人が、この場所で『しみずや』というパン屋をやっていた。ものすごい勢いでやっていて、今の国立に土地と店を買い、引っ越すことになったんだ。そのあと、ここでパン屋をやる人がいないか、と、小麦などの材料を卸す問屋に探してもらっていた。わたしは、そのころちょうど、阿佐ヶ谷の『桃屋』というパン屋でパンの修業をし、従業員として18年間働いて、一番古株になっていた。そろそろ独立したいと思っていたころ、ここに材料を卸していた問屋が『勇ちゃんどうかい?やんないかい?』と、話をもってきた。」
「最初、屋号は『桃屋』にしようと思ったが、看板、判子、包装紙など細かい小物を作るのにお金がかかる。そのお金がなかったので、このまま『しみずや』の屋号を使っていいか?と許可をとって『しみずや』にした。たぶん、昭和44年。ちょうどそのとき家内が妊娠してて、その年に生まれたのが娘。開店のとき臨月で12月に生まれた。なので、娘の歳を聞けば、営業年数がわかるよ。」
こういったいきさつで、金原さんは西荻で「しみずや」という名前のパン屋をはじめることになった。
日本のパン屋は、戦後、小麦粉を委託販売するというものだったそうだ。
「その頃のパン屋はみんなこんな感じだったよ。給食も始まった。給食はコッペパンだった。」
「100め(匁もんめ 1匁3.75g)の小麦粉をパン屋に持ち込むと、コッペパン3個と交換だった。いわゆる物々交換。それがパン屋の発展の始まりだった。その頃の小麦粉は各家庭から持ち込むから、地粉だとかありとあらゆる粉が混ざっていた。すごかったですよ。東京の人は自分の実家の農家から送られたのとか、配給とかもあったのかな…。でも配給は芋ばっかだったからなぁ。」
材料もそんな状態だった時代、金原さんはどうしてパン屋になりたかったのか。
「パンが好きだった。近くのパン屋で、パンを焼いている、なんともいえないいい匂いがするんでね。パンが好きでパン屋になった。ハイカラな仕事?…いやいや、パン屋の仕事は夜中だから。朝早いし。大変。」
パン屋の仕事がどんなに大変かがわかるエピソードとして、金原さんは以前、業界紙でこんな記事を読んだそうだ。「フランスでは昔、子どもが親の言うことを聞かずに遊んでばかりいると『おまえはパン屋にするぞ!』と叱っていたそう。どこの国でもパン屋の仕事は辛いらしい。」
「パンは子どもと同じで、めんどうみないといけないからね。生き物だから。毎日違う。体の調子が悪いときは味に出る。」
今も早朝から仕込みをしているのかと尋ねたところ、もう歳でなかなか…だそうだ。だが、起床は5時。5時に目が覚めるそうだ。とはいえ、起きてすぐには仕事にならず、現在は、仕込みをし、12時半過ぎてからお店を開けている。
しかし、ここにお店を出した頃は、朝7時からお店を開けていたそうだ。
「ここにきたばっかりの頃は、吉祥女子高の生徒がたくさん来た。その頃は元気だったから前日夜8時から翌日の仕込みをやっていた。朝7時には店を開けていた。それが、この店が黒山の人だかりになっちゃって。生徒たちが学校に行く前にパンを買っていくので。で、そのうちそこの角に先生が立って『そこでパン買っちゃダメ。風紀が乱れるから』と生徒に言い、学校の中にパン屋を入れて学校の中で買いなさいということになっちゃった。」
なぜ風紀が乱れるのか疑問だが…。
吉祥女子高の生徒だけでなく、男子高の法政二高の生徒にもよくここでパンを買っていたそうだ。
「男と女の食べ方ってのは、わかるんですよね。卵サンドとサラダサンドを買うのは女子高生、カツサンドとコロッケサンドを買うのは男の子。女の子でもカツサンドとコロッケサンドを買うのは男っぽい女の子。」
現在のお客は、ほとんどが近所の方。夕方、インタビュー中も、ひっきりなしに常連客が訪れてきて、インタビューが終わる6時頃にはショーケースの中はほぼすっからかん。最近では、雑誌、インターネットや食べログをみて、遠方からやってくるお客も増えたそうだ。
駅から東京女子大への通り道にあるので、しかし、女子大学生は常連さんとはいえないそうだ。「でも、東京女子大の子達もたまに買って行くよ。『ここのパンおいしくて、太っちゃったわ』とか言いながら買っていくよ(笑)」
開店以来、安定して商売をしてきたように思える「しみずや」にも厳しい時期もあった。
「ここは20年前に建て替えた。このパンケースもそのときに浅草の河童橋で探して買って来たもの。ここが一番苦しいときだった。コンビニができた。」
「コンビニがすごいと、一番わかったときは、そこのセブンイレブンが雨が降って事故かなんかあったときだった。お客さんがうちに来て、『おじさん、今日コンビニになんかあってなんにもないから、パン、たくさん作った方がいいわよ。』と言ってくれた。そしたら、もう、みんな来た。すごいですよ。ああ、お客さんの言う通りなんだなぁと思った。コンビニのお弁当とかも何もなかったからだろう。その頃、子どもがちょうど育ち盛りで、吉祥寺に家を建てて、でも売り上げが落ちて…子どもの高校と大学がぶつかって、本当に休みなしだった。でも、持ちこたえた…。」
「おすすめのパンは特にない、でも季節によってよく出るものが違う。例えば揚げクリームパン。よく出るけど、夏はダメ。」そんな話をうかがっている中、くだんの揚げクリームパンも完売してしまった。
パンではないが「くまサブレ」もここの名物である。雑誌などでよく取り上げられている、ひょうきんなくまの形をしたカリカリとおいしいサブレである。
西荻で半世紀近くパンを焼き続けている金原さんは、本当に常連客達から愛されている。インタビューの間も、暑い中、徒歩で、車で、自電車で、「おじさん、パンちょうだい。」とパンを買いに来る何人もの客達。パンを買いがてら差し入れを持ってくる人、金原さんにレシピを聞いて開催した何かのイベントの報告をする人も。
今、新しいパン屋が増える西荻の中、「しみずや」はレシピを変えず、ソフト系のやさしい味のパンを作り続け、昔から変わらず、近所の常連客から愛される続けるパン屋である。(ファーラー、木村、7月24日2016年)