母と娘で作る済州オンマの味
柳小路の奥、角にある韓国料理屋「トヤジ」。2017年6月3日と4日はトヤジの十周年記念イベントだった。常連客達から送られた大量の花と豚の風船が店先を飾る。店が開くや否や、次から次へと常連客がやってくる。店の一階と二階はもちろん、外に出された臨時のテーブルもあっという間にいっぱいになった。みな口々に、「十周年おめでとう、お母さん」と、お祝いの言葉を伝えている。花やプレゼントを持ってくるお客も多い。小さな二人の子どもを連れた夫婦は、店のマスター吉田七海(ナナミ)さんと娘さんの吉田榮珠(ヨンジュ)さんにおめでとうの言葉と夫婦それぞれから二つの花束を渡し、そして、飾られている大量の花の前で子ども達の写真を撮る。会話の内容から察するに、子ども達が生まれる前からのお客のようだ。外のテーブルに座るわたしの隣には、友人同士の男性が二人。一人は西荻在住のアマチュアボクサー。もう九年、トヤジに通っているそうだ。同じく常連客の友人は韓国人。今、西荻に住まいを探しているそうだ。トヤジの榮珠さんに韓国語で「おめでとう」といった内容のことを伝えている。
この日は、マッコリとビールは何杯飲んでも一杯百円。みんな明るい顔で何杯もお酒を注文しながらオンマの味を堪能していた。隣の韓国人の常連客は、鯖の煮込みと豚串を食べ、「うん、これこれ。済州のおばあちゃんが作ってくれた味。」と満足そうだった。
トヤジは韓国済州出身の吉田七海さんと、娘さんの吉田榮球さんで経営している。「トヤジ」の名前は済州の方言で「豚」という意味だそうだ。豚の焼肉が店の一押し料理だからだそうだ。看板にも、吉田さん親子や従業員たちが来ている制服のTシャツにも、トヤジ=豚が描かれている。
西荻にやって来て十年、大勢の常連客に親しまれる店を経営してきた吉田さん親子のこれまでをうかがった。
「日本に来てから二十二~二十三年くらいですね。初めはOLで仕事やってて十五年以上。その前から食べるものとかこういうものに興味あったりしたから…。 娘がずっとね、『オンマ、店やったら、やったら』って言っていたんで、興味あるから韓国料理の店に行ったりしたんですけど。会社なかなか辞められなくって…。」
しかし、その頃体調があまりすぐれなかった吉田さんは、自分の店なら自分のペースで仕事ができるだろうと考え、店を出すことを決めたそうだ。
「当時は娘は大学二年生だったんです。大学通いながらサポートしてくれたんです。もし、わたし一人だったら、あの、できなかったんだと思うんです。でも、娘に『わたしサポートするから、やってー』って言われたので、店、探したんです。」
仕事をコントロールできるという理由でレストラン経営をしたい…というと、日本以外の人々からは不思議に思われるかもしれない。他国ではあまり考えられないだろうが、日本では、企業で働く方が、自らレストラン経営をするよりも長時間仕事に拘束されることが多々ある。自営のレストランも長時間労働だが、自分で自分の仕事をコントロールできる。しかし、企業勤めはそれがかなり難しいのだ。
ところで、吉田さんのお住まいは五反田だそうだ。元の職場は新宿。なぜ西荻の、それもこんなディープな場所に店を出そうと思ったのかを聞いてみた。
「前ここは、韓国の兄弟が焼肉やってたんだけど、辞めて店閉めて、一か月ぐらいになったんですよーって言われて。西荻、初めて来たんですよ。」
前の店の経営者とは親戚でも友達でもなく、全く偶然に話を聞き、聞いたその日にこの場所を見に来たのだそうだ。そして即決。
「規模的にもそんな大きくないから、これだったら怖がらずに始められるって。前の人は二階は使わないで下だけでやっていたんですが、わたしは二階をしないで下だけじゃ無理だなって。テーブルだけだと。そう思って。」
一階と二階で合計四十人、それでも足りないときは外のテーブルで、多くて十人ほど座れるようだ。
店の外にテーブルを出している光景は柳小路ではしばしば見かけるが、この通りはどういった位置付けになっているのだろうか。
「ここは私道なんで、誰も気にしない…。向かいのお店と話して、人が通りやすくはしようとしています。この道は国が管理しているのではなくてここの不動産屋が管理している道なんで、テーブルを出しても大丈夫なんです。隣や前の店と折り合いがつけばいくらでも大丈夫。」
多いときだと五十人ほどで店は賑わう。娘さんが惚れ込み、大勢の人が食べに来るトヤジのメニューについてうかがってみた。
「十年間、メインは変わっていないです。サムギョプサル。三段バラがメイン。これが一番人気。」
では、たいていのお客がサムギョプサル目当てで来店するのだろうか。
「三段バラ以外はサイドメニューなんですけど、今、なんだろうなぁ。焼肉はめんどくさいから。飲む人が多いじゃないでか。逆に一品料理とかがすごく出たりとか。夏になると暑いから、ビールとあと、ボッサムとかのお肉の一品料理とかが出るんですよ。プルコギとか。中で作って出す料理。」
時間帯でも出るものが違うようだ。
「遅い時間は飲んで食べる方。早い時間は飲まずに食べる方もいるんですけど。遅い時間は飲みながらつまむ。もしくはシメに来る感じ。早い時間と夜遅い時間は客層がぜんんぜんっ違います。早い時間は普通のお子様連れのお客さん。お子様連れ多いですね。サラリーマンも多いですね。あと女子学生。たぶん東女から歩いてきて、店の中見て。女の子だらけのときもありますよ。男性が一人もいないときも。外から見て『女の子だらけだよ~』って(笑)。」
「『勇気出して入って来たんですよー』、っていう女の子は多いです。一回入ったらもう次は大丈夫。店をやっているのが二人とも女性だから安心だというのもあるし。女の人、一人だけで食事しに来ている人も多いです。仕事終わってこの辺に住まいがあるから、お疲れ~の一杯飲みながら食事して帰る。このテーブルに一人でもオッケー。ほんとに、一人で焼肉している人もいます、女性で。」
もちろん、飲む人もいるが、食事メインというお客がかなりいるようだ。
夜遅くてもガッツリ食べられている韓国家庭料理。料理はどこで学んだのだろうか。
「韓国で食堂やっている親友の友達がいるんですよ。その友達が人を招待して家で作って食べたりしてて、うちに来たりもして…。 ここでやっている料理は、わたしの経験をもとにバランスをとっている料理です。店をやりながら、その、さっきも言った韓国の友達のところに勉強しに行ったりとか。韓国の友達は韓国に住んでいて、けっこう有名なんです。年に三~四回とかは行ってるんで。たまに忘れたりするものもあるじゃないですか。電話で聞いたり。これこれ、これにはこれ入れたらよかったのかなーとか。そしたら、これにこれ入れたらおいしかったよーとか。主婦たちも何か作るとき『これこれ、これしたらおいしかったよー。』ってなるじゃないですか。そんな感じでするものもあるし。」
料理はスンデという韓国の腸詰め以外はすべて手作りだそうだ。では、食材はどうしているのかをうかがってみた。
「肉は、韓国のお肉屋さんがあるんですよ。だからそこで、同じ厚さに切ってくださいって。」
「韓国の焼肉と日本の焼肉は違います。日本の焼肉は使ったことないんですけど違うんです。扱い方が違う。うちが仕入れしているところのお肉はおいしいんで。」
韓国風料理ではなく、材料も厳選して韓国家庭料理の味を出すようにしているようだ。
年月が経つにつれ環境の変化はある。では十年という年月を経て、この柳小路がどう変化したかをうかがってみた。
「すごく賑やかだったんですよ。それでわたしもすぐ決めたんですよ。それに、サイズがね。そんなにでっかくないから。まず、それより、雰囲気が、テレビで観た昔の日本の雰囲気が…それにも、惚れたかな。十年前の方がもっと、昔…昭和っぽい感じかな、いい感じが出てたんです。今はちょっと、その、スナックの方たちがここ三~四年でみんなわーっと辞められて、そういう雰囲気じゃなく若返った雰囲気はあります。なんか、明るく明るく…。飲み屋だけどちょっとおしゃれ…って。」
では、辞めてしまったスナックのママたちは、今どうしているのかご存知なのか。
「会います、会います。それこそ、そのキャラバンさんのところでやっていた『よしこさん』っていう、スナックの、この町で一番古い方、三十年以上もやっていた。昨日もいましたよ、よしこさん。よしこママは三十何年かやってたんです。キャラバンのところで。スナックのママさんやっていた方たちは元気ですよ。この辺に住んでますよ。そしてみんな、飲みに来ます(笑)。」
十周年に大勢の常連客が集まるトヤジ。常連客達との関係もうかがってみた。
「そうですねー。なんか、そう、その人の環境が変わると変わっていくけど、最初に来てくれた人たちはみんなつながってる人の方が多い。海外に行っちゃった人もいるんですけど、みんな連絡とってる。けっこう長いんですよね、みんな。みんな、お店出したりもしてるし。実家帰っちゃったりも多いんですけど、西荻に来たら寄ってくれる。あと、地方から来た若い人達、やっぱ、お母さんが会いに来たりしたら、連れてくるんですよね。自分のお母さん代わりにやってくれるんだーって。連れてきて挨拶してくれて、ほんとにそれ、嬉しいんです。」
なんと、トヤジの社員旅行に常連客も加わるそうだ。常連客達とは年月を経てもつながっている。
柳小路では毎月第三日曜日に「昼市」が開催されている。トヤジはこの昼市にも参加している。昼市についてうかがってみた。
「オープンした次の月からずーっとやっていたんですよ。その頃はやらない店が多かった。ハンサムさんとうちだけですよ。毎月やったんですよ。もう、雨が降っても。」
「始めたのはハンサムさん。うちが来たときにはすでにやっていて。で、うちも工事しているときに毎日来ていたんですけど、日曜日に、あら、なんか賑やかだなって思って、参加してもいいですか?って聞いたら、いいですよ、ってなって、自由ですよ、って言ってくれたから、翌月から十年間ずっとやってます。」
「今はもう、(柳小路の店の)みんな必死にやるんだけど(笑)。あの頃は、逆にうち、言われたんですよね。『朝までやって昼もやって、倒れるよ』『大丈夫よ。昼市やらなくっても』って。でも今はそういう風に言った方も一生懸命やっている。」
客層が違うので、柳小路の昔ながらの飲み屋は昼市に参加しない。
「スナックの方たちは一切やらなかったんで、だから、『スナックのママたちが店開ける前に早く閉めよー』って。じゃましないように引き上げようって、そういう形だったんだけど、引きあげる人が手伝ってくれる人だったらいいんだけど、そんなの関係なくやる店もある。そしたらハンサムは困る。ママたちはみんなハンサムに文句言っちゃうから困る。だからハンサムが、もういいですって。うちは関係ないから自由にやる人はやって。そこから自由で。」
いろいろあったようだが、店を経営しながら十年間昼市にも参加し、積極的に地元に密着していっている様子がうかがえる。
柳小路という場所と店に集まる人々と、長い時間をかけてしっかりとしたつながりを強くしていったトヤジ。レストラン経験がなく不安を抱えてスタートした移民起業家、吉田さん母子は、社会的なつながりや地元の知識がない状態でこの狭い通りにやって来た。 そして十年後、彼らは他の店と親しく付き合い、また、常連客達との親密なコミュニティを構築していた。(ファーラー、木村、7月7日2017年)
※娘さんの榮珠さんが七海さんのことを、オモニ(お母さん)ではなく、オンマ(ママ)と呼んでいらっしゃったので、文章中では「オンマ」を使っています。