夜の旅人のカフェ
夜、八時から開店する「喫茶店」が西荻窪にある。
「喫茶店です。でも、お酒も飲めるんです。」
と、この日、マスターをしていたアダツさんが言った。
飲み屋街として有名な柳小路にあるにもかかわらず、あくまでも喫茶店というスタンスは崩さない。
「もともと、お酒を飲めない人が、バー文化に憧れてお店を始めたのがきっかけで…。」
西荻窪駅の南口を出ると、右手に延びる細い路地。一本目は焼き鳥屋の戎がある通り。そして、二本目、ハンサム食堂が店を出す柳小路だ。この柳小路の中間地点にある、夜だけの小さな喫茶店が「ワンデルング」である。
柳小路にある他の飲み屋と同じく、古い長屋に入った狭い店の中の一軒。白いドアに四角いガラス窓のついた、少し体をねじ込むようにして入らなければならない小さな入り口。ここは、店主も従業員も、そして、やって来るお客達もみな、どちらかというと年齢層は低めである。ワンデルングへ来ているお客達曰く、「『飲みニケーション』を新しく定義づけしている場所」であるそうだ。お酒ではなく、若いマスターが淹れるハンドドリップコーヒーを飲みながら、他の客とコーミュンニケーションするのである。もちろん、アルコールのメニューもあるので、お酒を飲むお客も困らない。しかし、ここは、「酔っ払うところではない」のだ。
アダツさんは、
「私にとって『マチネ』、ワンデルングの前の店名なんなんですが、初めて一人で来られるお店だった。お酒飲まなくていいし。でも、これだけお客同士の距離が近いと、絶対話しちゃうじゃないですか。だから何回か来てると、知り合いがだんだん増えてきて。来やすかったですね。」
「西荻で初めて見たんで。こんな一大コミュニティー。他のところにはあるのかなぁ、と思って。」
もともとアダツさんも、この夜の喫茶店のお客だったそうだ。そして、現在、ワンデルングをシェアするマスターの一人である。
ちょうど来店していた、常連客であるモエさん。
「私は西荻で五店舗ぐらいをずっとぐるぐるしてて。そこに断られると 『もうどこに行ったらいいか分からない!』みたいな。 その五店舗のうちのどこかに行くと、誰か知り合いがいる感じ。居酒屋とカレー屋と、カフェとカフェと…」
「コミュニティーはたぶんどこにでもあるんだろうけど、私お酒が飲めないせいもあって自分がそういうコミュニティーに入ることはないんだろうなぁって思っていたら、なんか『入っちゃった!』って 。どっかに行くと誰かいる。約束して会ってるってわけじゃないけど。」
こう笑いなら話す彼女も、実はワンデルングのマスターである。彼女は木曜日のマスターだ。
そう、ワンデルングには数人のマスターがいる。ワンデルングに毎日足を運ぶことができれば、毎日違うマスターと会うことができるだろう。出迎えてくれる顔が違うため、ワンデルングの印象は曜日によって変わる。そして、そのマスター全員が「夜の喫茶店コミュニティー」のメンバーである。オーナーは横田さんご夫妻。奥様はクマコさんと呼ばれている方だ。他のマスターたちは従業員的に店を運営しているのかと思い、話を聞き進めていくと、「同じ目線に立った各曜日のマスターが、同じ店の空間を曜日でシェアをしている」といった構造のようだ。
ただ、クマコさんは、「わたしたち夫婦が生計を立てる必要がある」と話していたので、確実に利益を上げることも必要としているようだ。 彼女は、午後、店の二階の空間で、女性客を対象としたマッサージも行っているそうだ。
柳小路にある他の店では、この通りに店舗を出す際には、古いバーやスナックの閉店後に入った…という話をよくきいてきたが、ワンデルングの店舗が入っているこの場所は十年ほど前から代々喫茶店だったそうだ。アダツさんが笑いながらこう話してくれた。
「『マチネ』がここの前で、その前が『エチカ』っていう名前で。『エチカ』のときから喫茶店だったらしいんですよ。『マチネ』やってた人たちは『エチカ』のお客さんで、私たちは『マチネ』のお客さんだったんですよ 。受け継がれてる。」
そして、その「マチネ」のオーナーは、今、週に一晩、ワンデルングで働いているそうだ。
常連客達が言うように、昔の常連客が店員になっていくという流れがあるのなら、彼らがここで働く理由は「単純にこの店が好きだからだ」と考えるのが自然だろう。けれども一方で、それぞれの人にそれぞれの動機がありそうだ。
火曜日のマスター、ソウさんは、ワンデルングで働きながら以前からの夢であった音楽オーガナイザーの仕事をしている。そんな彼は、去年の夏まではサラリーマンだったそうだ。
「大変ですけど楽しいんで。ここの上、店の二階にある屋根裏のようなスペースがあるんですが、ここでもライブが出来たりするんですよ。すごく狭いんで十人限定とかですけど。」
一度はサラリーマンとしての道を歩み始めたものの、順調に進むキャリアパスに、ふと、疑問が生じたという。
「新卒から三年半くらい働いたんです。とんとんとん、と進んで。でも、これは『出来るな』、と思ったんです。もともとお店とかをやりたかったんです。飲食とか、ライブとか。それで二十五歳の時に一回ドロップアウトして。」
ワンデルングの屋根裏部屋だけでなく四箇所ほどで音楽イベントを企画開催しながら、火曜日はお店に立つソウさん。でもそれだけでは「食べていけない」ため、睡眠時間を削り、救急病院の受付でも働く日々。
「もしダメだったら、また(サラリーマンに)戻ればいいや、って。」
ワンデルングは、新しいキャリアのためのつながりを築く場所でもあるようだ。
マチネがワンデルングになった際、オーナーの横田夫妻が行った最大の変革の一つは、小さなドアにガラスの窓をはめ込んだことだ。この小さなガラスの窓は、店の外へと大きく開いた。それまで、通りすがりの誰かが関心を持って店の前で立ち止まっていても、店の中ではそれを知る由もなかった。しかし、小さなガラス窓によって、店の人間が店を覗き込む新しい客と目を合わせ、彼らを歓迎することができるようになったのだ。
ドアのガラス窓には、ヘッセの「アベント」の詩の断片がある。 それはワンデルングの名前へと通じている
Sehe Mond und Sterne kreisen.
Ahne ihren Sinn.
Fühle mich mit Ihnen reisen.
Einerlei wohin (修正)
星と月が廻るのをみつめる
その意味に思いを巡らし
貴方と一緒に旅する気分に浸る
どんなところであっても
この詩の示す者は、この「小さな夜喫茶店」というコミュニティーに集まる若者達と重なっていくようだ。ここで楽しい時間を過ごすためにアルコールの力は必要ない。ワンデルングは、ただ、「単純にここが好き」というシンプルな気持ちを持つ同士がつながっていく場所なのである。(神山、ファーラー、木村、6月6日2017年)